なくてよろしい。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢一つを守って行けば宜しいので、その夢の内容も亦《また》、極めて順調、正確に、精細をきわめつつ移りかわって行く。この点が、勝手気儘な、奔放自在な成人の夢と違っているところである。
これを逆に説明すれば、胎児を創造するものは、胎児の夢である。そうして胎児の夢を支配するものは「細胞の記憶力」という事になる。すべての胎児が母胎内で繰返す進化の道程と、これに要する時間が共通一定しているのはこのためで、現在の人類が、或る共同の祖先から進化して来たために、細胞の記憶、即ち「胎児の夢」の長さが共通一定しているからである。又その無慮数億、もしくは数十億年に亘るべき「胎児の夢」が、僅に十個月の間に見てしまわれるのも、前述の細胞の霊能を参考すれば、決して怪しむべき事ではないので、進化の程度の低い動物の胎生の時間が、割合に短かいのは、そんな動物の進化の思い出が比較的簡単だからである。……だから元始以来、何等の進化も遂げていない下等微生物になると全然「胎児の夢」を有《も》たない。祖先そのままの姿で一瞬の間に分裂、繁殖して行くという理由も、ここに於て容易《たやす》く首肯される筈である。
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◇備考[#「◇備考」は太字] 如上の事実、すなわち「細胞の記憶力」その他の細胞の霊能が、如何に深刻、微妙なものがあるか。そうしてそれが一切の生物の子々孫々の輪廻転生《りんねてんしょう》に、如何に深遠微妙な影響を及ぼしつつ万有の運命を支配して行くものであるかという事に就ては、既に数千年以前から、埃及《エジプト》の一神教を本源とする、各種の経典に説かれているので、現在、世界各地に余喘《よぜん》を保っている所謂《いわゆる》、宗教なるものは、こうした科学的の考察を粉飾して、未開の人民に教示した儀礼、方便等の迷信化された残骸である。だからこの胎児の夢の存在も、決して新しい学説でない事を特にここに附記しておく。
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然《しか》らば、その吾々の記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を、具体的に説明すると、大要どのようなものであろうか。
これはここまで述べて来た各項に照し合せて考えれば、最早《もはや》、充分に推測され得る事と思うが、尚参考のために、筆者自身の推測を説明してみると大要、次のようなものでなければならぬと思う。
人間の胎児が、母の胎内で見て来る先祖代々の進化の夢の中で、一番よけいに見るのは悪夢でなければならぬ。
何故かというと、人間という動物は、今日の程度まで進化して来る間に、牛のような頭角も持たず、虎のような爪牙《そうが》もなく、鳥の翼、魚の保護色、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を一つも自身に備付《そなえつ》けなかった。ほかの動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場裡に曝露して、あらゆる恐ろしい天変地妖と闘いつつ、遂に今日の如き最高等の動物にまで進化し、成上《なりあが》って来た。その間には、殆ど他の動物と比較にならない程の生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験して来た筈で、その艱難辛苦の思い出は実に無量無辺、息も吐《つ》かれぬ位であったろうと思われる。その中でも自分の過去に属する、自分と同性の先祖代々の、何億、何千万年に亘る深刻な思い出を、一々ハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなって行く、胎児の苦労というものは、とてもその親達がこの世で受けている、短かい、浅墓《あさはか》な苦労なぞの及ぶところではないであろう。
まず人間のタネである一粒の細胞が、すべての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁の或る一点に附着すると間もなく、自分がそうした姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を浮游《ふゆう》している夢を見初める。その無数とも、無限とも数え切れない微生物の大群の一粒一粒には、その透明な身体に、大空の激しい光りを吸収したり反射したりして、或は七色の虹を放ち、又は金銀色の光芒《こうぼう》を散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽しつつ、どこを当ともなく浮游し、旋回し、揺曳しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅して行く、その果敢《はか》なさ。その楽しさ。その美しさ……と思う間もなく自分達の住む水に起った僅かな変化が、形容に絶した大苦痛になって襲いかかって来る。仲間の大群が見る見る中《うち》に死滅して行く。自分もどこかへ逃げて行こうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動く事が出来ない。その苦しさ、堪まらなさ……こうした苛責が、やっと通り過ぎたと思うと、忽《たちま》ち元始の太陽が烈火の如く追い迫り、蒼白い月の光
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