又、寝がけに「彼女に会いたいな」と思って眼を閉じていると、その一念の官能的な刺戟だけが眠り残っていて、彼女の処へ行きたくてたまらないのに、どうしても行けない自烈度《じれった》い気持を、夢として描きあらわす。彼女の姿は美しい花とか、鳥とか、風景とかいうものによって象徴されつつ彼の前に笑《え》み輝いているが、それを手に入れようとすると、色々な邪魔が出て来てなかなか近附けない。その細胞の記憶に残っている太古時代の天変地妖が、突然、眼の前に現われて来るかと思うと、祖先の原人が住んでいた地方の物凄い高山、断崖が見えて来る。その中を祖父が落《おち》ぶれて乞食していた時の気持になったり、親父《おやじ》が泳ぎ渡った大川の光景を、同じ思いをして泳ぎ渡ったりする。又は猿になって山を越えたり、魚になって海に潜ったりしつつ、千辛万苦してヤット彼女を……花、もしくは鳥を手に入れる事が出来た……と思うと、最初の自烈度《じれった》い気持がなくなるために、その夢もお終《しま》いになって目を醒ます。
そのほか寝小便のお蔭で、太古の大洪水の夢を見る。鼻が詰まったお蔭で、溺れ死にかかった少年時代の苦しみを今一度、夢に描かせられる。なぞ……斯様《かよう》にして手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、どこでも構わない。全身が眠っている間に、何等かの刺戟を受けて目を醒ましている細胞は、きっとその刺戟に相応《ふさわ》しい対象を聯想し、空想し、妄想している……何かの夢を見ている。すなわちその時その時の細胞の気持に相応した、又は似通った場面や、光景を、その細胞自身が先祖代々から稟《う》け伝えて来た記憶や、その細胞の主人公自身の過去の記憶の中から、手当り次第に喚び起して、勝手気儘に重ね合せたり、繋ぎ合せたりしつつ、そうした気持を最も深刻、痛切に描きあらわしている。もしそうした気分が非常識、もしくは変態的なもので、それに相応した感じをあらわす聯想の材料が見当らない場合には、すぐに想像の品物や、風景で間に合せ、埋め合せて行く。人体内に於ける細胞独特の恐怖、不安をあらわすために、蚯蚓《みみず》や蛇のようにのたくりまわる台所道具を聯想したり、苦痛をあらわすために、鮮血の滴《したた》る大木や、火焔の中に咲く花を描きあらわしたりする事は、恰《あたか》も神秘の正体を知らない人間が、羽根の生えた天使を考えるのと同様である。
これは吾々の眼が醒めている間の気分が、周囲の状況によって支配されつつ変化して行くのとは正反対で、夢の中では気分の方が先に立って移り変って行く。そうしてその気分にシックリする光景、風物、場面を、その気分の変って行く通りに、あとから追いかけ追いかけ千変万化させて行くのであるから、その千変万化が如何に突飛《とっぴ》な、辻褄《つじつま》の合ないものであろうとも、その間《かん》に何等の矛盾も、不自然も感じない。のみならず現実式の印象よりも却《かえ》って自然な、深刻、痛切な感じを受けるように思うのは当然の事である。
換言すれば夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、聯想の群れを、理屈も筋もなしに組み合せて、そうした気分の移り変りを、極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう。
[#ここから1字下げ]
◇備考[#「◇備考」は太字] 欧米各国に於ける各種の芸術運動の近代的傾向は、無意味なもしくは断片的な色彩音響、又は突飛な景象物体の組合せ等によって、従来の写実的、もしくは常識的の表現法以上の痛切、深刻な気分を表現しようとする事によって、漸次、夢の表現法と接近しつつある。
[#ここで字下げ終わり]
夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映である事は以上説明する通りであるが、次に夢の内容に於て感ずる時間と、実際の時間とが一致しない理由を明かにする。すなわち一般の人々が、時計とか、太陽とかに依《よ》って示される時間を、真実の時間と信じているために、如何に大きな錯覚を起して、厳正な科学的の判断に錯覚を来《きた》し、驚愕し、面喰いつつあるかを説明すれば、この疑問は立所《たちどころ》に氷解する筈である。
現代医学に依ると普通人の平静な呼吸の約十八、もしくは脈搏の七十幾つを経過する時間を標準として一分間と定めている。その六十倍が一時間、その二十四倍が一日、その又三百六十幾倍が一年と規定してある。同時にその一年は又、地球が太陽を一周する時間に相当する事になっているので、信用ある会社で出来る時計が示す時間は、万人一様に同じ一時間という事になっているのであるが、しかしこれは要するに人工の時間で、真実の時間の正体というものは、そんなものではない。その証拠には、そ
前へ
次へ
全235ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング