容が厳秘中であったが、右は同科新任教授正木博士が私費を投じて開設したものである事が判明した。右に就《つ》き正木博士は同教授室に於て、往訪の記者に対しかく語った。
[#ここで字下げ終わり]
世間では今度、吾輩が九大で開始した「解放治療」を吾輩の独創だとか、嶄新《ざんしん》奇抜だとかいって騒いでいるようであるが、正直のところを云うと決して吾輩の独創でもなければ、嶄新奇抜な療法でもないのだ。すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人の一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその賄係《まかないがか》りに見立てられ得るのだ。
……といっても吾輩は別に奇矯な言辞を弄《ろう》しているのではない。そうした事実を断言し得る相当の理由があるから云うので、何を隠そう吾輩の「精神病研究」の第一歩はこの「地球表面上が狂人の一大解放治療場になっている」という事実に立脚していると云ってもいいのだ。
それは何故かというと、元来この地上に生み付けられている人間は、身分の高下、老若男女の区別を問わず、指一本でも自分の自由にならぬか、又はどこか足りないか、多過ぎるかした人間を発見すると、すぐに「片輪《かたわ》」という名前を附けて軽蔑したり、気の毒がったり、特別扱いにしたりする事にきめている。同様に、頭のハタラキが本人の自由にならぬか、又は、頭の働きのどこか足りないか、多過ぎるかした人間を見付けると、早速、精神病患者、すなわちキチガイの烙印《やきいん》を押し付けて差別待遇を与える事にきめているようである。禽獣《きんじゅう》、虫ケラ以下の軽蔑、虐待を加えてもいいものと考えているらしく考えられる……が……然《しか》らばその精神病者を侮蔑し、冷笑している所謂《いわゆる》、普通の人間様たちの精神は、果して、何もかも満足に備わっているであろうか。すべての人々の脳髄は、隅々までも本人の意志の命令通りに、自由自在に動いているであろうか。
吾輩は敢《あえ》て云う。公平、且《か》つ厳正な学問の眼から見ると、決してそうは思えない。それは手足の曲ったのや、眼鼻の欠け落ちたのと同様に、外から肉眼で見わける事が出来ないだけで、実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者《かたわもの》ばかりと断言して差支えないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、又は智慧や情慾が多過ぎたり、足りなかったりする、所謂、精神的の片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、断然間違いはないのである。
早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。見っともない、下らない習慣が、いくら他人に笑われても止まない。又は出世の妨げになったり、他人に迷惑をかけたりするので、是非とも止める決心をして、神や仏に願《がん》をかけたり、新聞に広告までして誓《ちかい》を立てても悪い癖が止められないのは取りも直さず、自分の頭が、自分の自由にならない事を実地に証明しているのではないか。自分の頭の間違っているところを、自分の意志で直す事の出来ない、精神病的発作の根強いあらわれを見せているのではないか。又は泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤《おこ》る場合でないと思ってもついムカムカッと来て前後を忘却したりするのは、やはり一時的の精神の偏《かたよ》りを、自分で持ち直す事が出来ないという、アタマの弱点を曝露しているのではないか。
そのほか凝《こ》り性《しょう》、厭《あ》き性、ムラ気、お日和《ひより》機嫌、胴忘《どうわす》れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、変態心理なぞの数をつくして、出会う人|毎《ごと》に、知るも知らぬも、多少のキチガイ的傾向を帯びていない者は無い。頭の働らきの不叶《ふかな》いなところを持っていない者は無い。すなわち精神病者と五十歩百歩の人間でない者は居ないのだ。
その証拠には、そんな連中のそうした弱点……すなわち頭の不叶いなところを指摘してやると、誰でもヒヤリとして赤面するか、青すじを立てて弁明するか、腕まくりをして喰ってかかるかする。これはキチガイが自分自身をキチガイでないと主張するのと同じ心理で、まことに馬鹿馬鹿しい極みであるが又、人情の止むを得ないところであろう。……しかもその人情の止むを得ないところを、そのままにして放《ほ》ったらかしておくと、そんな精神病的傾向が当り前の事のように思えて来る。況《いわ》んや当世流行の紳士待遇でも与えようものならイヨイヨ病癖が増長して、イヨイヨ止むを得なくなって来る。そうしてトウトウ絶対に取り止めが出来なくなったのが、家庭悲劇や、犯罪事件となって社会に曝露する。軽いので社会的制裁、重いのになると法律の手にかかる。そ
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