になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それが或る思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どうかというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
 と云いさして私は口籠《くちご》もった。形容の出来ない昂奮に全身が青褪《あおざ》めたように感じつつ辛《かろ》うじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
 と若林博士は儼乎《げんこ》たる口調で云い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命を咀《のろ》われるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古《こうこ》の大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計劃を立てて、その研究を進めて来られたのです」
 それは私にとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」
 と云ううちに若林博士は、今まで話片手《はなしかたて》に眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて、恭《うやうや》しく私の前に押し進めた。
 私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように鄭重《ていちょう》な態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容を検《あらた》めてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判|罫紙《けいし》や、新聞の切抜を貼り付けた羅紗紙《らしゃがみ》の綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私はモウ一度パタリと表紙を閉じて、卓子《テーブル》の上に置き直した。
 その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究の中《うち》でも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容を覗《うかが》うのに必要な文献としましては、僅《わずか》にソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易《たやす》く、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。
 ……すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄|外道祭文《げどうさいもん》』と題しまする阿呆陀羅経《あほだらきょう》の歌で、現代に於ける精神病者虐待の実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を初められた、そのそもそもの動機が歌ってあるので御座います。
 ……それから次に羅紗紙《らしゃがみ》の台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記事で御座いますが、その中《うち》でも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛辣《しんらつ》な諧謔《かいぎゃく》交《まじ》りに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲息している人間の一人として精
前へ 次へ
全235ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング