、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人《なんぴと》であるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、扨《さ》て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中には斯様《かよう》な意味の抱負が述べてありましたそうです。
――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。恐らく、そんな人間は一人も居ないであろう事を確信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたという事を聞いて、長嘆これを久しうした。あの論文の価値が、こんなに易々《やすやす》と看破されるようでは、まだまだ私の研究が浅薄であったに違いない。こんな事では吾が福岡大学の名誉を不朽に伝える事は出来ないと思った。
――私は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜の時計は御迷惑ながら、当分お手許に御保管願いたい。この次にはキット、何人《なんぴと》にも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――
云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて「どこまでも人を喰った男だ」と云って大笑いをされたという事ですが……。
……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧洲各地を巡遊して、墺、独、仏、三箇国の名誉ある学位を取られたのですが、その中《うち》に大正四年になって、コッソリと帰朝されますと、今度は宿所《やど》を定めずに漂浪生活を初められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄|外道祭文《げどうさいもん》』と題する小冊子を、一般民衆に配布して廻られたのです」
「……キチガイ地獄……外道祭文……それはドンナ事が書いてあるのですか」
「……その内容は只今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、未だ曾て発表された事のない恐ろしい事実が書いてあるので御座います。要約《つづ》めて申しますと、その祭文の中には、前にもちょっと申しました現代社会に於ける精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕《ないまく》が曝露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人の暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。正木先生はこれを政府当局、その他、各|官衙《かんが》や学校へ洽《あま》ねく配布されたばかりでなく、自分自身で木魚を敲《たた》いて、その祭文歌を唄いながら、その祭文歌を印刷したパンフレットを民衆に頒布《はんぷ》して廻《ま》わられたのです」
「……自分自身で……木魚をたたいて……」
「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生にとっては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生のそうした御事業に就いては、恩師の斎藤先生も、陰《かげ》に陽《ひなた》に正木先生と連絡を取って、御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておられた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えように依っては非常識なものに見えましたためか、真剣になって共鳴する者が無かったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第で御座いました。……もっとも、その祭文歌の中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待の事実なぞが、一般社会に重大視される事になりますと、現代の精神病院は一つ残らず破毀《はき》されて、世界中に精神異状者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、左様な結果なぞは少しも問題にしてはおられなかったようで、唯、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、斯様《かよう》な宣伝をされたものと考えられるので御座います」
「それじゃ矢《や》っ張《ぱ》り……」
と云いさした私は、思わずドキンとして座り直さずにはおられなかった。そうして唾液《つば》を嚥《の》み込み嚥み込みつぶやいた。
「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」
「さようさよう……」
と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。
「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、吾々の測
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