の一篇は、吾々の頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々の夢の内容を、吾々成人の肉体、及《および》、精神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も嶄新《ざんしん》な学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ翹望《ぎょうぼう》し、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。
……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何にして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初に於て、如何に空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ」
……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
……ところで斎藤先生の斯様《かよう》な主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生は忽《たちま》ちの中《うち》に満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該博《がいはく》深遠なる議論を以て、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の銓衡《せんこう》を全部、翌日に廻わして、ラムプを点《つ》けて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、後《のち》に名総長と謳《うた》われました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜《おんし》の銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行衛《ゆくえ》不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」
私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口を噤《つぐ》んだ。恰《あたか》も何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口を啓《ひら》いた。
「正木先生が何故《なにゆえ》に、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという真個《ほんと》の原因に就ては今日まで、何人《なんぴと》も考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑を容《い》れないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛を晦《くら》まされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児に魘《おび》やかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方が宜《よろ》しいと思いますが」
と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣《ひきつ》らせながら、依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは
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