ので、又も若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、著《いちじる》しく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な歎息《ためいき》をしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。
「……やっとお眼に止まりましたね」
「……エッ……」
と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」
こう云われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。
けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち俛首《うなだ》れながら若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人|焚殺《ふんさつ》の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、彼《か》の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」
と私は独言《ひとりごと》のように呟《つぶや》いた。又も底知れぬ恐怖に囚《とら》われつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。焚《や》き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
と云いさして私は言葉を嚥《の》み込んだ。あんまり非道《ひど》い云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。儼然《げんぜん》たる事実に相違ないのです。その事実は追々《おいおい》と、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を樹《た》てられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、申分《もうしぶん》なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
私は又も呆然となった。開《あ》いた口が塞《ふさ》がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁に囚《とら》われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来な
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