囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大|卓子《テーブル》の片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。又もニジミ出して来る額の生汗《なまあせ》をハンカチで拭いた。そうして急に靴の踵《かかと》で半回転をして西の方に背中を向けた。
 ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大|卓子《テーブル》越しに、私の真正面まで辷《すべ》って来てピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。
 私は前こごみになっていた身体《からだ》をグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に見惚《みと》れた。

 その図は、西洋の火焙《ひあぶ》りか何かの光景らしかった。
 三本並んだ太い生木《なまき》の柱の中央に、白髪、白髯《はくぜん》の神々しい老人が、高々と括《くく》り付けられている。その右に、瘠《や》せこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに丸裸体《まるはだか》のまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。
 その酷《むご》たらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿《こし》に乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷族《けんぞく》や、臣下らしいものに取巻かれつつも如何《いか》にも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな掌《てのひら》で小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の頭巾《ずきん》を冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、撞木杖《しゅもくづえ》を突いて立ち佇《とど》まっているが、如何にも手柄顔に火刑柱《ひあぶりばしら》の三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、粗《まば》らな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
 私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者に憑《つ》かれたものとして、片端《かたっぱし》から焚《や》き殺している光景を描きあらわしたもので、中央に居《お》りまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼|卜筮者《うらないしゃ》であった巫女婆《みこばばあ》です。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河《やながわ》の骨董店《こっとうてん》から買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、寧《むし》ろ徹底した治療法というべきでしょう」
 私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
 そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが籠《こも》っていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。
「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」
 すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
「……いや……必ずしもそうでないのです。或は一《ひ》と思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
 私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
 それは額の禿《は》げ上った、胡麻塩髯《ごましおひげ》を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に湛《たた》えている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がする
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