たから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
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――歯齦《はぐき》の血で描いたお雛様《ひなさま》の掛軸――(女子大学卒業生作)
――火星征伐の建白書――(小学教員提出)
――唐詩選五言絶句「竹里館《ちくりかん》」隷書《れいしょ》――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫《きごう》せしもの)
――大英百科全書の数十|頁《ページ》を暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――「カチューシャ可愛や別れの辛《つ》らさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」)
――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)
――竹片《たけきれ》で赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
――鼻糞で固めた観音像、硝子《ガラス》箱入り――(曹洞宗布教師作)
[#ここで字下げ終わり]
私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向《そむ》けて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。
それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込《つづりこみ》で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢《よご》れてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我《けが》をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに赤《あか》インキの一頁大の亜剌比亜《アラビア》数字で、※[#ローマ数字1、1−13−21]、※[#ローマ数字2、1−13−22]、※[#ローマ数字3、1−13−23]、※[#ローマ数字4、1−13−24]、※[#ローマ数字5、1−13−25]と番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。
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巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
心がわかっておそろしいのか
[#ここで字下げ終わり]
その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ[#「ドグラ・マグラ」は太字]』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラ[#「ドグラ・マグラ」は太字]というのは……」
若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後《うしろ》からうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現《あらわ》した珍奇な、面白い製作の一つです。当科《ここ》の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気|呵成《かせい》に書上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容が亦《
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