しそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。とりあえずこんな参考材料と一所《いっしょ》に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」
 と云って大笑されましたので、流石《さすが》老練の塚江事務官も煙《けむ》に捲《まか》れたまま引退《ひきさが》ったものだそうです」
 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の度胆《どぎも》を抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素破《すば》らしさが、こうした何でもない諧謔《かいぎゃく》の中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一|刹那《せつな》に、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切《だいじ》がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛辣《しんらつ》、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然として開《あ》いた口が塞《ふさ》がらなくなるばかりであった。
 しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。
「……ところで、貴方《あなた》をこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは他事《ほか》でも御座いませぬ。只今も階下《した》の七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。……正木先生は曾《かつ》て、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく一瀉千里《いっしゃせんり》に、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」
 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。
 恰《あたか》も大人が小児《こども》に云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。
 私が先刻《さっき》から感じていた……何もかも出鱈目《でたらめ》ではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。
 若林博士は流石《さすが》に権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の隙間《すきま》もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人とし
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