で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの勿体《もったい》らしい錯覚に陥《おとしい》れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。
……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥《もくあみ》のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。
けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左掌《ひだりて》の上の懐中時計を、やおら旧《もと》のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。
「いかがです。お疲れになりませんか」
私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。
「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木敬之《まさきけいし》先生が、御臨終の当日まで居《お》られました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢に絡《から》まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから
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