じっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷《すす》り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。
人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと吐《つ》きながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
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……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁|一重《ひとえ》を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹《いとこ》で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿《むこ》さんであった私」というような奇怪極まる私[#「奇怪極まる私」に傍点]と同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払い除《の》けられたために、床の上へ崩折《くずお》れて、腸《はらわた》を絞るほど歎き悲しんでいる……
[#ここで字下げ終わり]
というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に唖《おし》にでもなったかのように、ピッタリと口を噤《つぐ》んでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣《チョッキ》のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、掌《てのひら》の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。
身体《からだ》の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あら
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