》になっておられた、あのお兄さまということだけは記憶《おぼ》えておいでになるのですね」
少女はうなずいた。そうして前よりも一層|烈《はげ》しい、高い声で泣き出した。
それは、何も知らずに聞いていても、真《まこと》に悲痛を極めた、腸《はらわた》を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角《せっかく》その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気《そっけ》なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその嗄《か》れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然《まるで》違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に陥《おとしい》れられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ堪《た》まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面《うしろ》姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに苛責《さい》なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう直《じ》きに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙《あんるい》を拭い拭い立ち竦《すく》んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をい
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