…」
私は突然に非常な力で跳ね起きた。火のような憤激に、全身をわななかせつつ廻転椅子から立上った。正木博士の口をアングリと開いて、呆気《あっけ》に取られている顔を見下しつつ、ギリギリと歯切《はぎし》りをして、唇を震わした。
「……イ……イ……嫌です。……ま……真平《まっぴら》御免です。……ゼゼ……絶対にお断りします」
「……………」
私は先刻《さっき》から一所懸命に我慢していた、あらゆる不愉快な思いが、口を衝《つ》いて迸《ほとばし》り出るのを止める事が出来なくなった。
「……ボ……僕は精神病者《キチガイ》かも知れません。……痴呆《バカ》かも知れません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつもりです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認める事が出来ないような女と、たかが治療のために一緒になるような事は断じて出来ません。法律上、道徳上、学術上、間違いない事がわかっていても、僕の良心が承知しません。……たといその女の人が、僕を正当の夫と認めて、恋い焦《こが》れているにしてもです。僕自身に、そんな記憶がない限り……そんな記憶を回復しない限り、どうしてそんな浅ましい、恥知らずな事が出来ましょう。……況《ま》して……まして……こんな穢《けが》らわしい研究の発表なんぞ……ダ……誰が……エエッ……」
「……マ……待て……」
正木博士が座ったまま、真青になって両手を上げた。
「……が……学術のために……」
「……ダ……駄目です……駄目です……絶対に駄目です」
私の眼から、涙が止め度もなく溢れ流れはじめた。そのために正木博士の顔も、部屋の中の光景もボンヤリして見えなくなったが、それを拭いもあえずに私は叫び続けた。
「学術が何です。……研究が何です。毛唐の科学者がどうしたんです。……僕はキチガイかも知れませんが日本人です。日本民族の血を稟《う》けているという自覚だけは持っています。そんな残忍な……恥知らずな……毛唐式の学術の研究や、実験の御厄介になるのは死んでも嫌です。……学術の研究というものが、どうしてもコンナ穢らわしい、恥知らずな事をしなければならないものならば……そうして僕が是非ともコンナ研究に関係しなければならない人間ならば、僕はそんな過去の記憶と一緒に、この頭をブッ潰してしまいます……今……直ぐに……」
前へ
次へ
全470ページ中432ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング