上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には幾何《いくら》這入っているかわからないが、滑《やわ》らかに膨らんだ小さな蟇口《がまぐち》が触《さわ》った。
私は又も狐に抓《つま》まれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎《あいにく》、破片《かけら》らしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い晒《ざら》しの浴衣《ゆかた》を取り除《の》けた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、巨大《おおき》な姿見鏡であった。
私は思わず背後《うしろ》によろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者《ひげむしゃ》で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、掌《てのひら》で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳《はたち》かそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮《あご》の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
その時に背後《うしろ》から若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
私は冠《かむ》りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液《つば》をグッと嚥《の》み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリ
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