か。
……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。
……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴《そいつ》が描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。
……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。
[#ここで字下げ終わり]
その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。徐《おもむ》ろに背後《うしろ》の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。
その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字|髭《ひげ》をピンと生《は》やして、白い詰襟《つめえり》の上衣《うわぎ》に黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない扮装《いでたち》をしていた。四角い黒革の手提鞄《てさげかばん》と、薄汚ない畳椅子《たたみいす》を左右の手に提《ひっさ》げていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の中央《まんなか》に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の鋏《はさみ》や、ブラシを葢《ふた》の上に掴《つま》み出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。
……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから素跣足《すはだし》のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字|鬚《ひげ》の小男が、白い布片《きれ》をパッと私の周囲《まわり》に引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。
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