……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言《おっしゃ》れば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
若林博士は斯様《かよう》云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に圧《お》されて、余儀なく項垂《うなだ》れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が判然《わか》らないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。
しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。
「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が喚《よ》び起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、如何《いかが》で御座いましょうか」
と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。
私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。
しかし心の中では些《すく》なからず躊躇《ちゅうちょ》していた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。
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……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまい
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