取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
私は一寸《ちょっと》の間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは斯様《かよう》な仔細《わけ》です」
と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然《ひょうぜん》と参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後で捉《つか》まえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次《とりつい》だのですから、誰一人として総長の斯様《かよう》な遣《や》り方を、異様に思う者はありませんでした。却《かえ》って感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、この間《かん》の消息が詳しく素破抜《すっぱぬ》いてありますが、その時に正木先生は、見窶《みすぼ》らしい紋付《もんつき》、袴《はかま》の姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を云われたものです。
「弱ったなあ。僕は飽《あ》く迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」
と悄《しょ》げ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が……
「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」
と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。
……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文《さいもん》の中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に
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