さかのぼ》った……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、予《か》ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼を瞠《みは》らぬ者はないくらいで御座いました。
……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸《ドイツ》語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言|混《まじ》りで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を愚弄《ぐろう》しているかの如く見えましたので、流石《さすが》に当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でも八釜《やかま》し屋を以《もっ》て鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文|銓衡《せんこう》の神聖を穢《けが》す者は、この正木という青二才に外《ほか》ならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい」
と敦圉《いきま》いているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
……斯様《かよう》な事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々《いよいよ》当日となりますと果して各教授とも略々《ほぼ》、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に
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