来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者に憑《つ》かれたものとして、片端《かたっぱし》から焚《や》き殺している光景を描きあらわしたもので、中央に居《お》りまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼|卜筮者《うらないしゃ》であった巫女婆《みこばばあ》です。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河《やながわ》の骨董店《こっとうてん》から買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、寧《むし》ろ徹底した治療法というべきでしょう」
私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが籠《こも》っていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。
「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」
すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
「……いや……必ずしもそうでないのです。或は一《ひ》と思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
それは額の禿《は》げ上った、胡麻塩髯《ごましおひげ》を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に湛《たた》えている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がする
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