滅法に野山を歩るきまわる。言葉|訛《なまり》の違った山向うの村で、道傍《みちばた》の知らない小児と遊んだり、祭神のわからない神社の絵馬を眺めまわしたり、溜池に石を投込んだりして、それこそ心の底からルンペン気分になって行くうちに、案内もわからぬ野山の涯で日を暮らして、驚いて帰って来る。すると又、不思議な事が起りました。
文章は一行も書けないのに俳句と川柳と短歌の出来ること出来ること。むろん碌《ろく》なものは出来ませぬ。短歌は大本教の王仁三郎《おにさぶろう》程度、俳句も川柳も月並以下の笊《ざる》で掬《すく》える程度のシロモノばかりですが、それでもその出て来るスピードには我ながら驚きました。俳句、川柳が一時間に二十か三十、短歌でも十四五ぐらいはペラペラと出て来ますので、ノートが忽ち一パイになってしまいます。あとで読み返してみても感心するものが一つもないので、とうとう癇癪を起して、そのノートを道傍の糞溜《くそだめ》の中に投込んでしまいましたが、今から考えても些《すこ》しも惜しいとは思いませぬ。今でも十七八字か三十一二字並んでいるだけなら一時間に二十や三十は平気ですからね。西鶴の二万句も、こん
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