スランプ
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千切《ちぎ》れる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)加藤|介春《かいしゅん》氏から、
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――ぷろふいる社御中――
申訳ありません。このあいだ御下命の原稿、一度、御猶予願っておきながら、まだ書けずにおります。ひどいスランプに陥ってしまったのです。
いささか広告に類しますが、私はスランプに陥った経験がまだ一度もないのです。
九州日報社で編輯と外交の中ブラリンをつとめております時分に、新聞専門家の間に名編輯長として聞こえていた、同時に自由詩社の元老として有名な加藤|介春《かいしゅん》氏から、神経が千切《ちぎ》れる程いじめ上げられた御蔭で、仕事に対する好き嫌いを全然云わない修業をさせられました。死ぬほどイヤなお提灯《ちょうちん》記事、御機嫌取り記事、尻拭い原稿なぞいうものを、電話や靴の音がガンガンガタガタと入り乱れるバラックの二階で、一気に、伸び伸びと書き飛ばし得る神経になり切っていたのです。自分の筆を冒涜し、蹂躙《じゅうりん》する事に、一種の変態的な興味と誇りとさえ感じていたものでした。
そのうちにその九州日報を首になりましたので、私は書きたい材料をウンウン云うほどペン軸に内訌《ないこう》させたまま山の中に引込んで、そんな材料をポツポツペン軸から絞り出して行くうちに、山の中特有の孤独な、静寂な環境のせいでしょうか。次第次第にペン先が我ままを云うようになりました。
四つも五つも電話が鳴りはためいている中でも平気で辷《すべ》っていたペンが、蠅の羽音を聞いても停電するようになりました。ペンが動き止まないうちは、一歩も机を離れなくなって、三度の食事は勿論、便所に立つ事も出来なくなりました。ことに一時間五枚という自慢のスピードがグングン落ちて来て、一日平均二枚、乃至《ないし》、五枚という程度まで低下して来たのにはホトホト閉口したものでした。
しかし、それでも有難いことに、とにもかくにもペンの方で動いてくれましたので、私もそのペン軸に取り縋《すが》り取り縋り、今日まで月日を押し送って来ましたが、最近……と云っても昨年末から、そのペンが一寸《ちょっと》も動かなくなったのです。
何故だかその理由はわからないのです。
昨年の十二月の初めの事です。私は道楽半分に書い
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