しまった。
 それから三時頃眼をさまして、羽根布団の中で焼き林檎《りんご》を喰べていると、いつの間に這入って来たのか、狼《ウルフ》が枕元に突立っていた。
 狼《ウルフ》というのは最前ハラムが云った中川青年のことだった。左翼の左翼の共産党の中でも一等スバシコイあばれ者だと自分で白状していたが、それはハラムの童貞とおんなじにホントウらしかった。青黄色い、骸骨みたいに瘠せこけた青年で、バラバラと乱れかかった髪毛《かみのけ》の下から、眼ばかりが薄暗く光っていた。唇だけが紅《べに》をつけたように真赤なのもこの青年の特徴だった。
 このウルフ青年は妾に、いろんな事を教えてくれた。インキの消し方だの、音を洩らさないピストルの撃ち方だの、台所にある砂糖とか、曹達《ソーダ》とかいうものばかりで出来る自然発火装置だの、ドブの中に出来る白い毒石の探し方だの……そんなものは、みんな印度のインターナショナルの連中から伝わったので、共産党の仕事に入り用なものばかりだと云って、得意になって話してくれた。けれどもカンジンの共産党の主義の話になると、ウルフの頭がわるいせいか、まるっきりチンプンカンプンなので困ってしまった。ウルフはただ小器用なのと、感激性が強くて無鉄砲なだけが取《と》り柄《え》の人間らしかった。
「……だから僕は一文も無いのだ。おまけに親ゆずりの肺病だから、生命《いのち》だってもうイクラもないようなもんだ。その上にあんたから毎日こうして虐待されるんだからね」
 ウルフはいつも詩人らしい口調でそう云っては、黒ずんだ歯を見せて薄笑いをした。きょうも散々《さんざん》パラ遊んだあげくに、もとの寝台にかえってさし向いになると、又おんなじ事を云ったから、妾は思い切って冷かしてやった。
「又はじまったのね。あんたのおきまりよ。ナマイダナマイダナマイダって」
 ウルフは慌てて手を振った。妾の言葉を打ち消しながら、やはり薄笑いをつづけた。
「……そ……そうじゃないよ。エラチャン。そうじゃないったら。だから……僕はだから、生命《いのち》のあるうちに、何か一つスバラシイ、思い切った事をやっつけなくっちゃ……」
「……また……生命《いのち》生命《いのち》って……そんなに生命《いのち》の事が気になるのだったら、サッサとお帰んなさいよ」
 妾から、こう云われると、ウルフは急にだまり込んで、うなだれてしまった。寝台の向う側に妾の爪先とスレスレにかしこまったまま、それこそ狼《ウルフ》ソックリのアバラ骨を薄い皮膚の下で上げたり下げたりして、一生懸命に咳《せき》を押え押えしていた。
「エラチャンは肺病は怖くないかい」
「チットモ怖かないわ。肺病のバイキンならどこでもウヨウヨしている。けれども達者な者には伝染しないって本に書いてあるじゃないの。妾その本を読んだから、あんたが無性に好きになったのよ。あんたが肺病でなけあ、妾こんなに可愛がりやしないわ。妾はあんたが呉れた赤い表紙の本を読んでいるうちに、あんた以上の共産主義になっちゃったのよ。……あんたが妾にサクシュされて、どんな風にガラン胴になって、ドンナ風に血を吐いて死んで行くか、見たくって見たくってたまんなくなったのよ。だからこんなに一生懸命になって可愛がって上げるのよ」
 妾がこう云って笑った時の狼《ウルフ》の顔ったらなかった。蒼白く並んだ肋骨《ろっこつ》を、鬼火のように波打たして、おびえ切ったウツロ眼《め》から泪《なみだ》をポトリポトリと落しはじめた。泣くような……笑うような皺《しわ》を顔中に引き釣らして泪の流れを歪《ゆが》みうねらせた。……と思うと不意に妾の両脚の間の、真白なリンネルの上に、骨だらけの身体《からだ》を投げ伏せて、両手をピッタリと顔に押し当てた。
 妾はハッとして起き直った。血を吐くのじゃないかしらんと思った。そのモジャモジャと乱れ重なった髪毛《かみのけ》の下を、ドキドキしながら見守っていた。しかし、そうじゃないらしい事が間もなくわかったので、妾はガッカリしてしまった。
 ウルフは、差し出した妾の手をソッと押し退《の》けた。そうして泪でよごれた顔を手の甲で拭《ぬぐ》い拭い寝台から降りて、長椅子の上に投げ出した洋服を着はじめた。
 けれども継《つ》ぎ継ぎだらけのワイシャツとズボン下を穿《は》いて、黒いボロボロのネクタイを上手に結んでしまうと、ウルフは、穴だらけの黒靴下を両手にブラ下げたまま、又、ジッとうなだれて考えはじめた。
 すると、そのうちにジッと考え込んでいたウルフは、何と思ったか両手に提《さ》げていた古靴下を麻雀台の上に投げ出した。髪毛《かみのけ》をうしろにハネ上げて、入口の扉《ドア》の方へヒョロヒョロと近づいた。そこの棚の上に置いてある黒い風呂敷包みを丁寧にほどいて、新しい食パンの固まりを二つ、大切そうに取り出した。そうして、その一つを両手で重たそうに抱えながら引返して来て、寝ころんでいる妾の眼の前に突きつけた。
「これは……約束の品です」
「ナアニ。コレ……食パンじゃないの」
 ウルフはニヤニヤと笑い出した。笑いながらパンの横腹を妾の方に向けて、そこについている切口を、すこしばかり引き開けるとその奥にテニスのゴム毬《まり》ぐらいの銀色に光る球《たま》が見えた。ところどころに黒いイボイボの附いた……。
「アッ……コレ爆弾、アブナイジャないの、こんなもの」
「エラチャンは……この間……云ったでしょう。日暮れ方にこの窓から覗いていると、あのブルドッグの狒々《ひひ》おやじが、往来を向うから横切って、妾の処へ通って来るのが見える。その威張った、人を人とも思わぬ図々しい姿を見ると、頭の上から爆弾か何か落してみたくなるって……」
「ええ……そう云ったでしょうよ。今でもそう思っているから……」
「その時に僕が、それじゃ近いうちにステキなスゴイのが仲間の手に這入るから、一つ持って来て上げましょう。その代りにキット彼奴《あいつ》の頭の上に落してくれますかって念を押したら、貴女《あなた》はキット落してやるから、キット持って来るように……」
「ええ。そう云ったわ。タッタ今ハッキリと思い出したわ」
「その約束をキット守って下さるなら、このオモチャを……おいしい『ココナットの実』を貴女に一つ分けて上げます。どうぞ彼奴《あいつ》に喰べさしてやって下さい。あいつは財界のムッソリニです。彼奴《あいつ》はお金の力で今の政府を押え付けて、亜米利加《アメリカ》と戦争をさせようとしているんです。現在の財界の行き詰りを戦争で打ち破ろうと企んでいるのです。日本は紙と黄金の戦争では世界中のどこの国にも勝てない。下層民の血を流す鉄と血の戦争以外に日本民族の生きて行く途《みち》はない。不景気を救う道はないと高唱しているのです。彼奴《きゃつ》はこの世の悪魔です。吾々の共同の敵なのです……彼奴《あいつ》は……イヤあなたの旦那の事を悪るく云って済みませんが……」
「……いいわよ……わかってるわよ。そんな事どうでもいいじゃないの。もうジキ片付くんだから……」
「……大丈夫ですか……」
「大丈夫よ。訳はないわ。あのオヤジはここへ来るたんびにキット、この窓の真下の勝手口の処で立ち止まって汗を拭くんだから……そうして色男気取りでシャッポをチャンと冠《かぶ》り直して、ネクタイをチョット触ってから勝手口の扉《ドア》を押すのが紋切型になっているんだから、その前に落せば一ペンにフッ飛んでしまうかも知れないわね。そうしたら、なおの事おもしろいけど……ホホホ……」
 妾がこう云うとウルフはチョット心配そうな顔をした。室《へや》の中をジロジロと見まわしたが、鉄筋コンクリートの頑丈ずくめな構造に気が付くと、やっと安心したらしく妾の顔を見直した。真赤な唇を女のようにニッコリさせつつ、無言のまま、ウドン粉臭いパンの固まりを私のお臍《へそ》の上に乗っけた。その無産党らしい熱情の籠《こ》もった顔付き……モノスゴイ眼尻の光り……青白い指のわななき……。

 本当を云うと妾《わたし》はこの時に身体《からだ》中がズキンズキンするほど嬉しかった。約束なんかどうでもいい……こんなステキなオモチャが手に這入るなんて妾は夢にも思いがけなかった。妾はウルフに獅噛《しが》み付いて喰ってしまいたいほど嬉しかった。丸い銀の球《たま》を手玉に取って、椅子やテーブルの上をトーダンスしてまわりたくてウズウズして来た。
 けれども妾は一生懸命に我慢した。その新しいパンの固まりを、お臍の上に乗っけたまま、ソーッとあおのけに引っくり返った。その中の銀色の球《たま》の重たさを考えながら、静かに息をしていると、そのパンの固まりが妾の鼻の先で、浮き上ったり沈み込んだりする。その中で爆弾が温柔《おとな》しくしている。そのたまらない気持ちよさ。面白さ。とうとうたまらなくなって妾は笑い出してしまった。
 あんまりダシヌケに笑い出したので、ウルフは驚いたらしかった。靴を穿きかけたまま妾の処へ駈け寄って来て、妾のお臍の上から辷《すべ》り落ちそうになっているパンの固まりをシッカリと両手で押え付けた。サッキのように、おびえて、ウツロな眼付きをしいしいパンの固まりを抱え上げて、妾の寝台の下に並んでいる西洋酒の瓶《びん》の間に押し込んだ。ホッと安心のため息をしいしい立ち上り、又服を着直した。靴穿きのまま、ダブダブのコール天のズボンと上衣《うわぎ》を着て、その上から妾の古いショールをグルグルと捲き付けた。その上から厚ぼったい羊羹《ようかん》色の外套《がいとう》を着て、ビバのお釜帽《かまぼう》を耳の上まで引っ冠せた。それから膝をガマ足にして、背中をまん丸く曲げて、首をグッとちぢめると五寸ぐらい背が低くなった。どっちから見てもズングリした、脂肪肥りのヘボ絵かきぐらいにしか見えなくなった。
 妾はいつもながらウルフの変装の上手なのに感心してしまった。口をへの字なりにして頬の肉をタルましたりしている顔付きのモットモらしいこと……妾だって往来のまん中でウルフを見つける事は出来ないだろうと思った。
 そのうちに厚ぼったい手袋のパチンをかけたウルフはヨロヨロと入口の方へ歩いて行った。もう一つのパンを黒い風呂敷包みにつつみ直して、大切そうに小腋に抱えると、扉《ドア》を静かに開いて廊下に出たが、扉《ドア》を閉めがけに今一度、共産党らしい、執着に冴えた眼の光りを妾の顔に注いだ。そうして念を押すように淋しくニッコリと笑いながら扉《ドア》を閉じた。

 その足音を聞き送ると、妾は、枕元のスイッチをひねってシャンデリヤを消した。パジャマと羽根布団で身体《からだ》を深々と包みながら、横のカアテンを引いた。硝子窓を開いて首を出した。
 窓の外はもう夕方で、山の手の方から海へかけて一面に灯《ひ》がともっている。そのキラキラした光りの海を青い、冷たい風が途切《とぎ》れ途切れに吹きまくって、横町から五階の窓まで吹き上げて、妾の頬を撫でて行くのがトテモ気持ちがいい。スチームのムンムンする室《へや》に居るよりも、窓からスーッと飛び出して、冷たい風の中を舞いまわった方がいいと思った。
 そう思いながらも、妾はジッと瞳を凝《こ》らして、真下に在るアパートの勝手口の処を見ていた。今のウルフの中川が、どんなに巧みな歩き方をして、街を横切って行くか見たかったから……そうして街を横切ってしまわないうちに、そこいらにウロ付いている私服に掴まったら……その時にあの爆弾を投げ付けたら……モウモウと起る土けむり……バラバラ散り落ちる家々の硝子窓……転がる首……投げ出す手……跳ね飛ぶ足……乱れ散る血しお……ホンモノの素晴らしいトオキー……。
 ところが眼の下のスクリーンはなかなか妾の思う通りに進展しなかった。狼《ウルフ》の中川は待っても待っても往来に姿をあらわさなかった。気が付いてみるとサッキからエレベーターの音がチットモ響いて来ないのは、もしかすると、どこかに故障が出来ているのかも知れない。だから中川はコツコツと階段を降りて行っているのかも知れないと思った。あとから考えるとこの時にハラムが何
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