お姫《ひい》様……何もかも運命で御座います」
 ハラムは、そうした気持ちの妾を又も軽々と抱き上げて、ノッシノッシと歩きながら、室《へや》の真中に在る紫檀《したん》の麻雀《マージャン》台の前に来た。それは牌《パイ》なんか一度も並べた事のない、妾達の食卓になっていた。その前に据《すわ》っている色真綿《いろまわた》の肘掛椅子の中に妾の身体《からだ》を深々と落し込むと、その上から緞子《どんす》の羽根布団を蔽いかぶせて、妾の首から上だけ出してくれた。
 ハラムのこんなシグサは、まったく、いつもにない事だった。けれども妾は別段に怪しみもしないで、される通りになっていた。今から考えると、その時の妾の恰好《かっこう》は、ずいぶん変デコだったろうと思うけど……。
 そればかりじゃなかった。ハラムは平生《いつも》のようにパンカアを引き動かして、妾の身体《からだ》を乾かしてくれる事もしなかった。そんな事は忘れてしまったように、室《へや》の隅から籐椅子《とういす》を一つ、妾の前に引き寄せて来て、その上に威儀堂々とかしこまった。そうして塔のように捲き上げたターバンを傾けて、妾の瞳にピッタリと、自分の瞳を合せると、そのまま瞬《またた》き一つしなくなった。妾も仕方なしに、真綿の椅子の中で羽根布団に埋《うずま》ったまま、おなじようにしてハラムの顔を見上げていた。
 籐椅子がハラムの大きな身体《からだ》の下でギイギイと鳴った。
 その時にハラムは底深い、静かな声で、ユルユルと口を利きはじめた。妾の瞳をみつめたまま……。
「……何事も運命で御座います。妾は、お姫《ひい》様の運命をはじめからおしまいまで存じているので御座います。あなた様の過去も、現在も、未来の事までも、残らず存じ上げているので御座います。この世の中の出来事という出来事は、何一つ残らず、運命の神様のお力によって出来た事ばかりなのでございます」
 ハラムの顔付きがみるみるうちに、それこそ運命の神様のように気高く見えて来た。ターバンのうしろに光っている海月色《くらげいろ》のシャンデリヤまでが、後光のように神秘的な光りをあらわして来た。それにつれてハラムの低い声が、銀線みたいに美しい、不思議な調子を震わしはじめた。
「……その運命の神様と申しまするのは、竈《かまど》の神、不浄場《ふじょうば》の神、湯殿の神、三ツ角《かど》の神、四つ辻の神、火の山の神、タコの木の神、泥海の神、または太陽の神、月の神、星の神、リンガムの神、ヨニの神々のいずれにも増して大きな、神々の中の大神様で御座いまする。その運命の大神様の思召《おぼしめ》しによって、この世の中は土の限り、天の涯《はし》までも支配されているので御座います」
 妾はハラムの底深い声の魅力に囚われて、動くことが出来なくなってしまった。電気死刑の椅子に坐らせられて、身体《からだ》がしびれてしまったようになってしまった。大きな呼吸《いき》をしても……チョイト動いても、すぐに運命の神様の御心に反《そむ》いて、大変な事が起りそうな気がして来た。
 そんなに固くなっている妾を真正面にして、ハラムは裁判官のように眼を据えた。なおも、おごそかな言葉をつづけた。
「……けれども……けれども……御発明なお姫《ひい》様は、今朝《けさ》から、それがお解りになりかけておいでになるので御座います。……お姫《ひい》様は今朝《けさ》から、眼にも見えず、心にも聞えない何ものかを探し求めておいでになるので御座います。……で御座いますから、そのようにお淋しいのでございます」
 妾は返事の代りに深いため息を一つした。そうして今一度シッカリと眼を閉じて見せた。ハラムのお説教の意味がすきとおるくらいハッキリと妾にわかったから……。
 ハラムは毛ムクジャラの両手を胸に押し当てて、黄色いターバンを心持ち前に傾《かし》げていた。その青黒い瞳をジイと伏せたまま、洞穴《ほらあな》の奥から出るような謙遜した声を響かした。
「……おそれながら私は、今日という今日までの間、運命の神様のお仕事が、お姫《ひい》様の御身《おみ》の上に成就致しまするのを、来る日も来る日もお待ち申しておったので御座います。それを楽しみに明け暮れお側にお付き添い申上げておったので御座います。眼に見えぬ運命の神様のお力を借りまして、あの赤岩権六様を、あなた様にお近づけ申し上げましたのも、かく申す私なので御座います。それから、あの共産党の中川さまを、お伽《とぎ》におすすめ致しましたのも、ほかならぬ私めが仕事で御座いまする。そうして、かように申しまする私が、赤岩様のお眼鏡に叶いまして、あなた様の御守役として、御奉公が叶いまするように取り計らいましたのも、皆、この私めが、私の霊魂を支配しておられまする神様の御命令によって致しました事なので御座いまする」
 ハラムはここまで云いさすと、何故だかわからないけれどもフッツリと言葉を切ってしまった。つっ伏したまま黙りこくって、身動き一つしなくなった。それにつれて、その下の籐椅子の鳴る音が、微かにギイギイときこえて来た。運命の神様の声のように、おごそかに……ひめやかに……。
 妾《わたし》は今までに泣いた事などは一度もなかった。人間が何人殺されたって、どんなに大勢からイジメられたって、悲しいなんか思ったことはコレッばかしもなかった。それだのにこの時ばっかりは、何故ともわからないまんまに、泪《なみだ》が出て来て仕様がなかった。ハラムのお説教とは何の関係もなしに胸が一パイになって来て仕様がなかった。何が悲しいのかチットモ解からないのに泣けて泣けてたまらなかった。
 ……すると、そのうちに何だか胸がスウ――として来たようなので、妾は羽根布団からヒョイと顔を出してみた。
 両方の眼をこすって見るとハラムはまだ妾の前に頭を下げている。妾を拝むように両手を握り合わせて、両股を広々と踏みはだけている。そうして心の中《うち》で御祈祷か何かしているらしく、唇をムチムチと動かしている。
 そうしたハラムの姿を見ているうちに、妾はフッと可笑《おか》しくなって来た。何だか生れかわったように気が軽くなって、思わずゲラゲラと笑い出してしまった。
 ハラムはビックリしたらしかった。白眼をグルグルとまわしながら顔を上げて、妾の顔をのぞき込んだから、妾はもう一度キャラキャラと笑ってやった。
「……ハラムや御飯をちょうだい……」
「……ハ……ハイ……」
 ハラムは面喰らったらしかった。妾のために一生懸命で、ラドウーラ様をお祈りしていた最中だったらしく、毒気を抜かれたように眼ばかりパチクリさせていた。
「それからね。御飯が済んだら、妾に運命を支配する術を教えて頂戴ね。自分の運命でも他人の運命でも、自分の思い通りに支配する術を教えて頂戴……あたし……悪魔の弟子になってもいいから……ネ……」
「……ハ……ハ……ハイ……ハイ……」
 ハラムはイヨイヨ泡を喰ったらしかった。ムニャムニャと唇を動かしていたが、やがて、こんな謎のような言葉を、切れ切れに吐き出した。
「……運命の神様……ラドウーラ様の前には……善も……悪も……御座いませぬ」
「ダカラサ。何でも構わないから教えて頂戴って云ってるじゃないの……あたしの運命を、お前の力で、死ぬほど恐ろしいところに導いてくれてもいいわ」
 ここまで云って来ると妾は思わず羽根布団を蹴飛ばしてしまった。妾のステキな思い付きに感心してしまって、吾《わ》れ知らず身体《からだ》を前に乗り出した。両手を打ち合わせて喜んだ。
「いいかい。ハラム。妾はまだハラハラするような怖い目に会った事が一度もないんだから、お前の力でゼヒトモそんな運命にブツカルようにラドウーラ様に願って頂戴……妾は自分で気が違うほど怖い眼だの、アブナッカシイ眼にだの会ってみたくて会ってみたくて仕様がないんだから」
「……ハイ……ハハッ……」
 ハラムはやっと息詰まるような返事をした。
「その代りに御褒美には何でも上げるわ。妾はナンニモ持たないけど……妾のこの身体《からだ》でよかったらソックリお前に上げるから、八ツ裂きにでも何でもしてチョウダイ」
 ハラムはイヨイヨ肝《きも》を潰したらしかった。眼の玉を血のニジムほど剥き出した。唇をわななかして何か云おうとした。……と思うと、その次の瞬間には、みるみる血の色を復活さして、身体《からだ》じゅうを真赤な海老茶色《えびちゃいろ》にしてしまった。口をアングリと開いて、白い歯をギラギラ光らせながら、思い切って卑《いや》しい……獣《けだもの》のような……声の無い笑い顔をした。
 その顔を見ているうちに妾はヤットわかった。ハラムの本心がドン底までわかってしまった。ハラムは運命の神様のマドウーラ様から、この妾を生涯の妻とするように命令《いいつけ》られているに違いなかった。
 ハラムはズット前から、妾に死ぬほど惚れ込んでいたに違いない。そうしてその悪魔みたいな頭のよさと、牡牛のような辛棒強さとで、妾の気象《きしょう》を隅から隅まで研究しながら、妾の心を捉える機会を、毎日毎日、一心にねらい澄ましていたにちがいない。
「オホホホホホ。おかしなハラム……そんなに真赤にならなくたっていいよ。妾は嘘を吐《つ》かないから……その代りお前も嘘を吐《つ》いちゃいけないよ」
 ハラムは幾度も幾度も唾液を呑みこみ呑みこみした。御馳走を見せつけられた犬みたいに眼を光らせながら……。
「キット……キットお眼にかけます。ハイ。ハイ。私はお姫《ひい》様の奴隷で御座います。ハイ……私は……私はまだ誰にも申しませぬが、世にも恐しい……世にも奇妙なオモチャを二つ持っております。印度のインターナショナルの言葉で『ココナットの実』と申しますオモチャを二つ持っております。それは輸入禁止になっておりまする品物でナカナカ手に這入らない珍らしいもので御座いますが、私は、その取次ぎを致しておりまするので……」
「そのオモチャは何に使うの……云って御覧……」
 ハラムは急に両手をさし上げた。いかにも勿体《もったい》をつけるように頭を烈《はげ》しく振り立てた。
「イヤ……イヤイヤイヤ。それは、わざと申し上げますまい。お許し下さいませ。只今はそれを申上げない方が、運命の神様の御心に叶うからで御座います。……しかし……それはもう間もなく、おわかりになる事で御座います。私はその『ココナットの実』を、きょう中に二つとも、ある人の手に渡すので御座います。その方は、お姫《ひい》様がよく御存じの方で御座いますが……そうしますると、その『ココナットの実』が、その方と、それから矢張り、お姫《ひい》様がよく御存じのモウ一人の方の運命を支配致しまして、お二方《ふたかた》ともお姫《ひい》様のところへは二度とお出《い》でになる事が出来ないような、恐ろしい運命に陥られる事になるので御座います。お姫《ひい》様の眼の前で……お身体《からだ》の近くで、そのような恐ろしい事が起るので御座います。そうして……そうして……お姫《ひい》様は……お姫《ひい》様は……」
「ホホホホホホ。キットお前一人のものになると云うのでしょう」
 ハラムは真赤な上にも真赤になった。眼に泪《なみだ》を一パイに溜めた。口をポカンと開いて、今にも涎《よだれ》の垂れそうな顔をしたが、両手をさし上げたまま床の上にベッタリと、平蜘蛛《ひらぐも》のようにヒレ伏してしまった。
「もういいもういい。わかったよわかったよ。それよりも早く御飯の支度をして頂戴……お腹がペコペコになって死にそうだから……」

 妾のお腹の虫が、フォックス・トロットとワルツをチャンポンに踊っていた。そこへ美しい印度式のライスカレーが一皿分|天降《あまくだ》ったら、すぐに踊りをやめてしまった。妾はお腹の虫の現金なのに呆れてしまった。それからハラムの御自慢の、冷めたいニンニク水をグラスで二三杯流し込んでやると、虫たちはイヨイヨ安心したらしく、グーグーとイビキをかいて眠り込んでしまった。だから妾もすぐに、寝台の上に這い上って、羽根布団にもぐり込んで寝た。死んだようにグッスリと眠って
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