、まだどれくらい時間がかかるかわからないけど、その間にこのあたし……疑問の少女エラ子を見つける事が出来なければ、日本の警察も新聞記者も、みんなお馬鹿さんよ……って……ネ……。
 大丈夫よ。誰も妾を捕まえに来やしないわよ。妾がここを出たあとでこの置手紙を見て騒ぎ出すぐらいがセキのヤマよ。
 妾は本当の事を書いておきます。妾はつくづく神戸がイヤになってしまいました。シンカラお友達になってみたいと思う人が一人も居ない事がわかりました。ですからモウこれっきり[#「これっきり」に傍点]神戸に来まいと思って、タッタ一人でこのカフェーに乾盃をしに来たら、ちょうどコンナ号外が出たので、ツイ持ち前のイタズラ気《け》を出してしまったのです。

 妾は今朝《けさ》早く窓際のベッドの中で眼を醒ました。前の晩に遅くまで遊んだ朝は、いつでも、おひる頃まで睡たいのに、今朝《けさ》はよっぽどどうかしていた。
 妾は窓のカアテンを引いた。硝子《がらす》が一面にスチームで露っぽくなっていたから、手の平で拭いた。冷たかったので頭がハッキリとなった。
 妾の室《へや》はゴンロク・アパートの五階だった。窓の外は神戸の海岸通りの横町になっていた。左手に胡粉絵《ごふんえ》みたいな諏訪山の公園が浮き出している。右手の港につながっている船の姿がまるで影絵のよう。その向うから冷たい太陽がのぼって、霜の真白な町々を桃色に照している。窓硝子が厚いから何の音もきこえない。
 そんなシンカンとした景色を見ているうちに、妾はヘンに淋しくなって来た。何故っていう事はないけれど……こんな事は今までに一度もなかった。
 妾は古代|更紗《さらさ》のカアテンを引いて、つめたい外の景色を隠した。思い切って寝返りをしてみた。
 妾の寝台は隅から隅まで印度《インド》風で凝《こ》り固まっていた。白いのは天井裏のパンカアと、海月《くらげ》色に光る切子《きりこ》硝子のシャンデリヤだけだった。そのほかは椅子でも、机でも、床でも、壁でも、みんなアクドイ印度風の刺繍《ししゅう》や、更紗《さらさ》模様で蔽いかくしてあった。その中でも隣りの室《へや》との仕切りの垂れ幕には、特別に大きい、黄金色《きんいろ》のさそり[#「さそり」に傍点]だの、燃え立つような甘草《かんぞう》の花だの、真青な人喰い鳥だのがノサバリまわっていた。
 その垂幕の間から、隣りの化粧部屋と、その向うの白い浴槽《バス》がホノ暗くのぞいている。浴槽《バス》の向うには鏡の屏風《びょうぶ》が立っている。そんなものの隅々にピカピカチカチカ光っている金銀だの、瀬戸物だのの装飾が、一ツ一ツにブルドッグ・オヤジ……妾の旦那になっている赤岩権六の金ピカ趣味をサラケ出していた。見れば見るほど淋しい、つまんないものばかりだった。
 そのブルドッグ・オヤジの赤岩権六は、ゆんべ夜中に急用が出来て、諏訪山裏の本宅の白髪婆《しらがばばあ》のところへ帰った。だから妾は今朝《けさ》、一人ぼっちで眼を醒したのだった。
 だけど妾がコンナに淋しいのはブル・オヤジが居ないせいじゃなかった。ブル・オヤジが百人出て来たって、妾の気持ちを、とり直すことなんか出来やしなかった。今までだってそうだった。今もそうに違いなかった。
 妾はタッタ一人でベッドの上に長くなったまんま、暗いところへグングン落ち込んで行くような気もちになっていた。
 妾はいつの間にか枕元のベルを押したらしい。入口の横の垂れ幕を押し分けて、コックのハラムがノッソリと這入って来た。
 ハラムは印度人の中《うち》でも図抜けの大男だった。背の高さが二|米突《メートル》ぐらいあって左右の腕が日本人の股《もも》とおんなじ大きさをしていた。それがいつもの通り、妾の大好きな黄色い上等の印度服を引っかけて、おなじ色のターバンを高々と頭に捲き上げているばかりでなく、眼のまわりが青ずんで、瞳《ひとみ》がギョロギョロして、鼻が尖《と》んがって、腮鬚《あごひげ》や胸毛を真黒くモジャモジャと生《は》やしているのだから、ちょうどアラビアン・ナイトに出て来る強盗の親分みたいなスバラシサで、見上げただけでも気持ちがスーッとした。この印度人は故郷に居る時分からうらない[#「うらない」に傍点]が本職で、四十二歳の今日がきょうまで、何とかいうバラモンの神様に誓って、童貞を守っているのだ……と自分で云っていた。だけど色が黒いからホントだか嘘だかよくわからなかった。
 妾は毎朝ブル・オヤジが帰ったあとで、誰も居なくなると、この男に抱かれてユックリお湯に入れてもらうのを何よりの楽しみにしていた。それは思いようによってはこの上もない、ステキな冒険に違いなかったから……。
 けれどもハラムは妾の処に来た最初から、どこまでも柔順な妾の家来になり切っていた。今朝《けさ》もやっぱりい
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