に対して手向いも何もせずにヨロヨロとよろめきまわっている。左手の黒い包みをシッカリと握り締めたまま……。
妾はこんな面白い光景を見た事がなかった。あの包みが直ぐ横の電柱か、自動車の横腹にぶつかったら……と思うと、何度もハラハラさせられた。
ところが不思議な事に、二人はそのまま別れて行かなかった。
ブル・オヤジはウルフを睨み付けたまま、右手をあげて合図をすると、自動車の中から、菜葉《なっぱ》服に鳥打帽の、肩幅の広い運転手が降りて来た。この運転手はブル・オヤジが用心棒に雇っている相馬という男で、刑事の経験がある上に、柔道を四段とか五段とか取る恐ろしい人だとハラムがいつぞや話して聞かせた。本当だか嘘だかわからないけども、何しろブル・オヤジがまん丸く膨れて、赤い浮標《ブイ》のようにフラフラしているのに、片っ方の運転手は弗箱《ドルばこ》みたいに重々しくて真四角い恰好をしているから、見かけだけでも頑固らしい。おまけに、そればかりでなく、その男が自動車の手入れをする姿のままで来たのだから、何でもヨッポド素敵な大事件を耳にしてフル・スピードで飛び出したとしか思えない。そうして何かしら思い切った冒険を覚悟してここへ乗り付けたものに違いない。……と思う間もなく相馬運転手は、今まで自動車の中からウルフに差し向けていたらしいピストルをキラリと菜葉服のポケットに落し込みながら、直ぐにウルフのうしろに廻って、両方の手首を黒い包みごとシッカリと押え付けてしまった。
それを見るとそこいらを通りかかっている三四人の洋服男が立ち止まって見物し出した。ズット向うの四ツ辻に突立っている交通巡査も、こっちの方を注意しはじめた。
妾はブル・オヤジの大胆なのに呆れてしまった。おおかたブル・オヤジは相手の正体を知らないでいるのだろう。よしんば正体を知っているにしても、その相手が持っている黒い包みの中味ばっかりは知っていよう筈がない……だから自分の経営しているビルデングから出て来た怪しげな浮浪人を咎《とが》めるくらいのつもりでいるのじゃないかしら……と考えているうちに、吹き荒《すさ》んでいた風が突然ピッタリと止んで、ブル・オヤジの大きな怒鳴り声が、五階の上から見下している妾のところまで聞えて来た。
「……俺は貴様の正体ぐらい、トックの昔に知っているぞ。貴様はお尋ね者の……だろう」
妾は夢中になって身体《からだ》を引っこめかけた。ブル・オヤジが、わざと云わなかった名前が相手にハッキリ通じたに違いないと思った。それと同時にウルフが正体をあらわすにちがいないと思った。今にも運転手の強力《ごうりき》に押えられている両手を振り切って、黒い包みを相手にタタキ付けるかと、息を詰めて身構えていたが、ウルフは矢張り、そんな気振りをチットモ見せなかった。ブル・オヤジからそう云われると同時に、意気地《いくじ》なくグッタリと首をうなだれてしまった。
ウルフのそうした姿を見ると、ブル・オヤジは、なおのこと大きな声でタンカを切り出した。
「貴様等の秘密行動は一から十まで俺の耳に筒抜けなんだぞ。日本の警察全体の耳よりも俺の耳の方がズット上等なんだぞ。貴様がこのごろここへ出這入りし初めた事も、タッタ今、貴様の変装と一緒に、或る方面から電話で知らせて来たんだ。だから俺は大急ぎで飛ばして来た。貴様の面《つら》を見おぼえに来たんだ。いいか……」
「……………」
「……敵にするなら敵でもいい。貴様等の首を絞めるくらい何でもない。論より証拠この通りだ。貴様等みたいな青二才におじけ[#「おじけ」に傍点]て俺の荒仕事が出来ると思うか。しかし、きょうは許してやる。俺の可愛い奴のために見のがしてやる。ここで出会ったんだから仕方があるまい」
「………………」
「行け…………」
ブル・オヤジが、こう云うのと一緒に、ウルフの両手を掴んでいた運転手が手を離して、グルリと相手の横ワキへまわった。その菜っ葉服のポケットの中でピストルを構えているのが真上から見ているせいか、よくわかった。
けれどもウルフは行かなかった。その代りに今まで猫背に屈《かが》まっていた身体《からだ》をシャンと伸ばすと、共産党員らしい勇敢な態度にかわって、ブル・オヤジの真正面にスックリと突立った。二人はそのまま睨み合いをはじめた……。
妾は何だかつまんなくなって来た。
睨み合っている二人はお互いに、お互い同志の事を知り過ぎるくらい知り合っているのだった。それでいてこの妾に気兼ねをしているために、何んにも手出しが出来ずにいるのだった。
妾は窓から首を引っこめて、大きなクシャミを一つした。寝台の下に手を入れて、コロコロ倒れる瓶の間から、重たいパンの固まりを取り上げると、その横腹をやぶきながら、もう一度窓の下をのぞいてみた。
五階の下の往来では二
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