シャッポをチャンと冠《かぶ》り直して、ネクタイをチョット触ってから勝手口の扉《ドア》を押すのが紋切型になっているんだから、その前に落せば一ペンにフッ飛んでしまうかも知れないわね。そうしたら、なおの事おもしろいけど……ホホホ……」
 妾がこう云うとウルフはチョット心配そうな顔をした。室《へや》の中をジロジロと見まわしたが、鉄筋コンクリートの頑丈ずくめな構造に気が付くと、やっと安心したらしく妾の顔を見直した。真赤な唇を女のようにニッコリさせつつ、無言のまま、ウドン粉臭いパンの固まりを私のお臍《へそ》の上に乗っけた。その無産党らしい熱情の籠《こ》もった顔付き……モノスゴイ眼尻の光り……青白い指のわななき……。

 本当を云うと妾《わたし》はこの時に身体《からだ》中がズキンズキンするほど嬉しかった。約束なんかどうでもいい……こんなステキなオモチャが手に這入るなんて妾は夢にも思いがけなかった。妾はウルフに獅噛《しが》み付いて喰ってしまいたいほど嬉しかった。丸い銀の球《たま》を手玉に取って、椅子やテーブルの上をトーダンスしてまわりたくてウズウズして来た。
 けれども妾は一生懸命に我慢した。その新しいパンの固まりを、お臍の上に乗っけたまま、ソーッとあおのけに引っくり返った。その中の銀色の球《たま》の重たさを考えながら、静かに息をしていると、そのパンの固まりが妾の鼻の先で、浮き上ったり沈み込んだりする。その中で爆弾が温柔《おとな》しくしている。そのたまらない気持ちよさ。面白さ。とうとうたまらなくなって妾は笑い出してしまった。
 あんまりダシヌケに笑い出したので、ウルフは驚いたらしかった。靴を穿きかけたまま妾の処へ駈け寄って来て、妾のお臍の上から辷《すべ》り落ちそうになっているパンの固まりをシッカリと両手で押え付けた。サッキのように、おびえて、ウツロな眼付きをしいしいパンの固まりを抱え上げて、妾の寝台の下に並んでいる西洋酒の瓶《びん》の間に押し込んだ。ホッと安心のため息をしいしい立ち上り、又服を着直した。靴穿きのまま、ダブダブのコール天のズボンと上衣《うわぎ》を着て、その上から妾の古いショールをグルグルと捲き付けた。その上から厚ぼったい羊羹《ようかん》色の外套《がいとう》を着て、ビバのお釜帽《かまぼう》を耳の上まで引っ冠せた。それから膝をガマ足にして、背中をまん丸く曲げて、首をグッと
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