い処から落っこって、頭を打った瞬間に、ソンナ変テコな状態に陥ったものじゃなかったかと、今でも思っている次第ですが……しかしコンナ実例は、先生の方が失礼ながら、お詳しい事と存じますが……。
……ハハア。そんな実例を見た事は無いが、話にはよく出て来る。真面目な事実として在り得るかも知れない……成る程。とにかくそれから後《のち》というもの私は、その記者某から指導されるまにまに、自分自身の過去を、すっかりカモフラージュしておりました……。
……自分は九州佐賀の生れで、親も兄弟も無い孤児である。むろん学問という学問もしていないが、最近、東京で事業に失敗して、この世を悲観した結果、人跡未踏の北海道の山奥で自殺して、死骸を熊か鷲の餌食《えじき》にするつもりで、山又山を無茶苦茶に分け登って行くうちに、過《あやま》って石狩川に陥入ったもの……。
とか何とかいったような出鱈目《でたらめ》で、別荘附近の人々を胡魔化《ごまか》してしまいました。それから伸び放題になっていた頭をハイカラに手入れして、見違えるようなシャンに生れ変りましたが、併しソンナ風にして生れ変りは変ったものの、モトモト行く先も帰る先も無い、風来坊の身の上でしたから仕方がありません。その記者が寝間着《ねまき》にしていた古浴衣を貰い受けまして、その別荘の御厄介になりながら、毎日毎日ボンヤリしていた訳でしたが……。
……エッその新聞記者の名前ですか。
……ええっと……。オヤッ。おかしいな……何とかいったっけが……ツイ今サッキまでハッキリと記憶《おぼ》えていたんですが。……オカシイナ……ツイ胴忘《どうわす》れしちゃってチョット思い出せないんですが。エッ。何ですって……。
生命《いのち》の親様の名前を忘れるなんて、言語道断だと仰有《おっしゃ》るのですか……ト……飛んでもない。アンナ奴が生命《いのち》の親様なら、猫イラズは長生《ながいき》の妙薬でしょう。
私が前に申しましたような、容易ならぬ大罪人の前科者という事実を、早くもその時に看破するや否や、一種の猟奇趣味の満足のためとしか思えない、極めて残忍な方法でもって、私の運命を手玉に取るべく、ソロソロと手を伸ばしかけていた悪魔というのは、誰でもない。その生命《いのち》の親様だったのです。谷山家の獅子身中の虫となって、私を半狂人《はんきちがい》になるまで苦しめ抜く計画を、冷静にめぐらしていたケダモノが、その新聞記者だったのです。……ええ……そうですね。それじゃソイツの名前を思い出すまで仮りにAとでも名付けて、お話を進めておきますかね。
何でもそのAという男は、谷山家の内情に精通している、お出入り同様の新聞記者で、熊狩や、スケートの名人だと自称しておりましたが、それは恐らく事実だったのでしょう。体格のいい、色の黒い、眼の光りの鋭い、如何《いか》にも新聞記者らしいツンとした男でしたがね。そんな風にして私を、谷山家の別荘に引止めながら、色んな事を質問したり、話しかけたりして、私の記憶を回復させよう回復させようと努力していたようです。
ええ。もちろんそうですとも。とりあえず私の記憶を回復させた上で、素晴らしい新聞種を絞り出してくれようと思っていたに違い無いのですが、生憎《あいにく》なことにその結果は、全然、徒労に帰してしまいました。私の脳髄から蒸発してしまった過去の記憶は、モウ疾《と》っくにシリウス星座あたりへ逃げ去っていたのでしょう。それから後《のち》、容易な事では帰って来なかったのですが……。
もっともその時に万一、私が過去の経歴を思い出していたら、話はソレッ切りで、目出度《めでた》し目出度しになっていたかも知れません。アンナ空恐ろしい思いをさせられないまま、音も香《か》もなく土になってしまったかも知れないのですがね……。
それから約二週間ばかり経った、或る暑い日のことでした。炭坑王、谷山家の一粒種の女主人公で、両親も兄弟も無い有名な我儘者《わがままもの》で、同時に小樽から函館へかけた、社交界の女王と呼ばれていた、龍代《たつよ》さんと称する二十三歳になる令嬢が、小母さんと称する、中年の婦人を二三人お供に連れて、愛別から出来た新道をドライヴしながら、突然に、エサウシ山下の別荘へ遣って来たのです。そうして私は間もなく、その令嬢のお眼に止まる事になったのです……ええ。そうなんです……お話のテムポが非常に早いようですが、事実ですから致し方がありません。尤も後から聞いてみますと、その我儘女王の龍代さんは、小樽の本宅に廻って来たA記者の報告によって、私の事を承知するや否《いな》や、たまらない好奇心に馳《か》られたらしく、何も彼《か》も放《ほ》ったらかして、私を見に来たものだそうですが、しかも来て見るや否やタッタ一眼で、氏《うじ》も素性も知れな
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