、駒場の農科大学に入学して、卒業間際になっていた者ですが、九州人の特徴として、器量も無い癖に政治問題の研究に没頭した結果、当時の大政党憲友会の暴状に憤慨し、同会総裁、兼、首相であった白原圭吾《しろはらけいご》氏を暗殺して終身懲役に処せられ、北海道|樺戸《かばと》の監獄に送られて間なく脱獄し、爾来《じらい》、杳《よう》として消息を絶っていた者……と申しましたら、その他の細かい履歴は申上げずとも宜《よろ》しいでしょう。暗殺、逮捕、脱獄の前後を通じて、全国の新聞紙に仰々しく掲載されていたものですからね……。
 しかしその中《うち》に唯一つ、私の脱獄の理由として新聞紙上に伝えられていたものが皆、飛んでもない間違いばかりであった事は、誰も気付かないでいるでしょう。再度の暗殺決行とか、社会主義的潜行運動のためとか、又は露西亜《ロシア》への逃亡のためとかいったような風説が皆、御念の入った当てズッポーばかりで、天下を聳動《しょうどう》した私の脱獄の動機なるものが、実は他愛もないモノであった事を知っている人間は、そう沢山には居ない筈です。
 私が樺戸に落付いてから間もなくの事でした。東京で恋の真似事をしておりました女給の鞆岐《ともえだ》久美子というのが、遥々、北海道まで尋ねて来て、思いがけなく面会に来てくれたのです。
 この事実は間もなく新聞紙上に伝えられまして、活動写真にまで仕組まれたそうですから、御存じの方もありましょうが、何を隠しましょう。私はその時に、彼女から受けました巧妙な暗示と、係官に怨恨《うらみ》を抱いておりました同囚の者の同情とに依りまして、何の苦もなく脱獄を決行する事が出来たのです。……しかもその脱獄の方法というのが、特に私の生命に拘《かか》わる重大問題でありまして、同時に同囚の恩人たちにも、非常に迷惑のかかる話ですから、こればかりはこの口を引裂かれてもお話出来ないのです。……が……ともかくもそのような事情で、首尾よく逮捕の手をのがれました私は、彼女と共に石狩川の下流を越えまして、例の絶対安全の神秘境に恋の巣を営むことになったのです。
 もっともコンナ風に話して参りますと、何のことはないお伽話《とぎばなし》みたような筋道になってしまいますが、併《しか》し、そこまで来る間の私共の辛苦|艱難《かんなん》と、それから後《のち》の孤軍奮闘的生活といったら、優《まさ》にロビンソン・クルーソー以上の奇談を綴るに足るものがあったのですよ。
 私は樺戸を脱出するとそのまま、持って生れた健脚を利用して、山又山を逃げ廻りながら、一心に久美子の行衛《ゆくえ》を探索し初めたものです。無論囚人服を着たままですから、夜しか人里に出られなかった訳でしたが、私は盗みというものを絶対にしない方針でしたので、どこまでも青いお仕着《しき》せ姿で、鳥獣と同じ生活をして行かなければなりませんでした。ですから、その最初の間の苦しみというものは、実に想像の外でしたが、併し又一方から申しますと、そうした辛棒のお蔭で、私の逃げ足が絶対にわからなかったのですから、詰るところ差引の損得は無かったかも知れません。のみならずその辛棒の甲斐《かい》がありまして、脱獄してから一個月目に、新旭川附近の只《と》ある村外れで、彼女が私に暗示していた、小さな奇術劇団の辻ビラがブラ下っているのを発見しました時の、私の喜びはドンナでしたろう。忽《たちま》ち勇気を百倍しました私は、アラユル危険を物ともせずに、折からの暗夜《やみよ》に紛《まぎ》れて、旭川の町にかかっているその劇団に付き纏《まと》うたものでしたが、そのうちに、トウトウ彼女と連絡を取ることに成功しますと私は、迅速に手筈をきめまして、一気に彼女を引っぱり出してしまったのです。
 その時に生命《いのち》と頼むものは、大急ぎで彼女に買集めさした一挺の鍬《くわ》と、一本の洋刀《ナイフ》と、リュックサックに詰めた二つの鍋と、六貫目ばかりの食料だけでした。その以外には何の準備も出来ない囚人服のまま、舞台裏から飛出して来たばかりの、金ピカ洋装の彼女と手に手を取って、涯《は》てしない原始林の奥を目がけて、盲滅法《めくらめっぽう》に突進したのですからね。恋は盲目と申しますが、これくらい思い切った盲目ぶりはチョットほかに類が無いでしょう。
 しかもその途中では、深山幽谷に慣れた薬草採りでも震え戦《おのの》く、寒い寒い霧に包まれて、二日二晩も絶食したまま、土の中に穴を掘って潜り込んだり、又は背丈よりも高い灌木林を、一反歩以上も掻き散らして、木の根を掘った餓え熊の爪の跡を見て、モウ運の尽きだと諦めて、二人で抱き合って泣き出したり、それはそれは喜劇とも悲劇とも付かない情ない目や、恐ろしい目に何度会ったものかわかりません。
 ところでそのような次第で、木の実|榧《かや
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