が、この病院の中《うち》で埋れ木になるか、ならないかの境い目と思いますから、背に腹は換えられない気持ちで、先生にだけソッとお打明けする次第ですが……ハハイ……ハイ。
 先生はズット前に、誰からか、コンナ話をお聞きになった事がありましょう。
 北海道は石狩川の上流、山又山のその又奥の奥山に、一軒の原始的な小舎《こや》が建っているのが見える。その家は北面の背後を、旭岳に続く峨々《がが》たる山脈に囲まれている一方に、前面は切立ったような、石狩本流の絶壁に遮《さえぎ》られていて、人間|業《わざ》では容易に近付けない位置に在るので、ツイこの頃まで、誰にも発見されないままになっていたものらしい。
 ところが最近に到って、北海道特有の薬草|採《と》りが、霧に出会って山道に踏み迷った結果、偶然に、遠くからこの一軒屋を発見してからというもの、急に評判が高くなって、北海道中に拡がってしまった。……その一軒家は、まだ誰も知らないアイヌ部落の離れ小舎《ごや》だろうと云う者が居る。一方に、それは北海道名物の、監獄部屋から脱出した人間が、復讐《しかえし》を恐れて隠れているのだ……といったような穿《うが》った説が出るかと思うと、イヤそうではあるまい。ことによるとそれは、太古以来生き残っている原人の棲家《すみか》かも知れない……なぞと云い出す凝《こ》り屋《や》も居る。そうかと思うと……ナアニそれは薬草採りが見当違いをしたんだ。大方北見|境《ざかい》に居る猟師の家を遠くから見たんだろう……なぞと茶化《ちゃか》してしまう者も居る……といった塩梅《あんばい》で、サッパリ要領を得ないままに、噂ばかりがヤタラに高まって行った。
 そのうちにその評判が、トウトウ新聞社の耳に這入《はい》ると、イヨイヨ騒ぎが大きくなってしまった。結局Aが奉公していた小樽タイムスの政敵、函館時報社の飛行機で撮影された、その家の鳥瞰《ちょうかん》写真が、紙面一パイに掲載されることになったが、その写真をよく見ると、それは明らかに日本人が建てたらしい草葺《くさぶき》小舎で、外国映画に出て来る丸太小舎《ロッグケビン》式の恰好をしているばかりでなく、純日本式の野菜畑や、西洋式の放射状の花畑なぞが、ハッキリと映っているところを見ると、皆の想像とは全然違った文化人の住居《すまい》に違いない。しかも、それでいてその位置はというと、確かに、北海道の脊梁《せきりょう》山脈の中でも、人跡未踏の神秘境に相違ないのだから、その一軒家が何人《なんぴと》の住家であろうかは、容易に推測されない訳である。奇怪……不思議……といったような事実が、同乗の記者によって詳細に報道された。そうしてそのまま猟奇《りょうき》の輩《ともがら》の口端《くちは》に上って、色々な臆説の種になっているばかりである……という事実を、先生は多分、何かの雑誌か、新聞で御覧になった事でしょう。ハハア。まだ御覧にならない……。御研究がお忙しいのでね。成る程……それでは致し方がありませんが、何を隠しましょう、その一軒屋こそ、私が建てた愛の巣なのです。私が妻子と一所に、楽しい自給自足の生活を営んでいた、第二の故郷に相違ないのです。……イヤどうも……御免下さい。どうも胸が一パイになりまして……ハハイ……ハハイ……。私は石狩本流の絶壁から墜落したトタンに、そうした記憶をスッカリ喪《うしな》っていたのです。ええええ。事実ですとも事実ですとも……。
 私の戸籍が偽物であることは、私の生れ故郷の村役場に御照会下されば一目瞭然することです。その戸籍面を偽造して、私を初め谷山一家の人々を欺いていたのが、誰でもない、新聞記者のAだったのですからね。
 私が二度目の結婚問題に差し迫られたまま、旅行にカコ付けて家を飛び出したのも、かつは誰にも知れないようにAに面会してみたかったからでした。Aはその頃、小樽タイムスを罷《や》めて、九州地方をウロ付いているという噂でしたからね。何かしら私の過去に就いて、探りに行ったのじゃないか……といったような気がしたからです。それから二度目に、モウ一度家を脱け出した時も、そうした潜在意識に支配されていたのでしょう。何となく石狩の上流に行ってみたい。そうしたら何もかもわかるに違い無い……といったような気持になったからでした。
 併《しか》し、最早《もはや》そんな無駄骨折をする必要は無くなりました。私が完全に過去の記憶を回復しているのですからね……同時に、そのお蔭で、谷山家の養子事件を裏面《うら》からアヤツリ廻して来た、冷血残忍なAの手の動きを、ハッキリと見透かしながら、お話する事が出来るのですからね……。
 私は福岡県朝倉郡の造酒屋、畑中正作《はたなかしょうさく》の三男で、昌夫《まさお》と呼ばれていた者です。父の持山に葡萄《ぶどう》を栽培するのが目的で
前へ 次へ
全13ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング