ソン・クルーソー以上の奇談を綴るに足るものがあったのですよ。
 私は樺戸を脱出するとそのまま、持って生れた健脚を利用して、山又山を逃げ廻りながら、一心に久美子の行衛《ゆくえ》を探索し初めたものです。無論囚人服を着たままですから、夜しか人里に出られなかった訳でしたが、私は盗みというものを絶対にしない方針でしたので、どこまでも青いお仕着《しき》せ姿で、鳥獣と同じ生活をして行かなければなりませんでした。ですから、その最初の間の苦しみというものは、実に想像の外でしたが、併し又一方から申しますと、そうした辛棒のお蔭で、私の逃げ足が絶対にわからなかったのですから、詰るところ差引の損得は無かったかも知れません。のみならずその辛棒の甲斐《かい》がありまして、脱獄してから一個月目に、新旭川附近の只《と》ある村外れで、彼女が私に暗示していた、小さな奇術劇団の辻ビラがブラ下っているのを発見しました時の、私の喜びはドンナでしたろう。忽《たちま》ち勇気を百倍しました私は、アラユル危険を物ともせずに、折からの暗夜《やみよ》に紛《まぎ》れて、旭川の町にかかっているその劇団に付き纏《まと》うたものでしたが、そのうちに、トウトウ彼女と連絡を取ることに成功しますと私は、迅速に手筈をきめまして、一気に彼女を引っぱり出してしまったのです。
 その時に生命《いのち》と頼むものは、大急ぎで彼女に買集めさした一挺の鍬《くわ》と、一本の洋刀《ナイフ》と、リュックサックに詰めた二つの鍋と、六貫目ばかりの食料だけでした。その以外には何の準備も出来ない囚人服のまま、舞台裏から飛出して来たばかりの、金ピカ洋装の彼女と手に手を取って、涯《は》てしない原始林の奥を目がけて、盲滅法《めくらめっぽう》に突進したのですからね。恋は盲目と申しますが、これくらい思い切った盲目ぶりはチョットほかに類が無いでしょう。
 しかもその途中では、深山幽谷に慣れた薬草採りでも震え戦《おのの》く、寒い寒い霧に包まれて、二日二晩も絶食したまま、土の中に穴を掘って潜り込んだり、又は背丈よりも高い灌木林を、一反歩以上も掻き散らして、木の根を掘った餓え熊の爪の跡を見て、モウ運の尽きだと諦めて、二人で抱き合って泣き出したり、それはそれは喜劇とも悲劇とも付かない情ない目や、恐ろしい目に何度会ったものかわかりません。
 ところでそのような次第で、木の実|榧《かや
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