スチームの音がしなかったが、その西村の顔をジロリと見た貴様が……イヤ……三好だっけな……スチームが一パイ這入ってれあここで鵞鳥を絞め殺したって、生きながら猿の皮を剥いだって大丈夫だ……てな事を云ったじゃないか」
「そんならそれを聞いた貴方と、三好と、あっしと、三人の中《うち》の一人が犯人でしょう」
「俺はソンナ事をする必要はない」
「必要はなくても貴方に間違いないですよ」
「何……何だと……」
「ヘヘヘ……あの時に貴方の仕事を、ズッと向うの事務所の前から拝見していたのは、あっしと三好と、又野の三人ですぜ。貴方は近眼だからわからなかったんでしょうけど……貴方は警察に呼ばれて話をしたのが又野一人と思っていらっしたんですか。又野が一番正直者ですから代表に名前を出されただけなんですぜ。ヘヘヘ……貴方にも似合わない迂濶《うかつ》な新聞の読み方をしたもんですなあ」
「……………」
「ねえ。そうでしょう。立役者は何といったって貴方一人だ。貴方にはチャンとした必要があったんだ。だからあの話から思い付いて、万が一にも抜目の無《ね》えつもりでキチンとした計画を立てたのが、いけなかったんですね。つまり貴方の頭が良過《よす》ぎたんだ」
「……………」
「ねえ。そうでしょう。今貴方がお穿きになっているその新しい太陽足袋ですね。そいつがきょう、テニス・コートで物をいっちゃったんでさあ。あの話は、ほかの連中もみんな聞いているんですからね。あっしが出る処へ出れあ、証人はいくらでも……」
「よしッ。わかったッ。もう云うな……半分くれてやる」
「エッ。半分……」と戸塚が叫んだ。
「……ヘエッ……半分ですって……」
「同じ事を二度とは云わん。テニスの道具を蔵《しま》ってあるあの部屋のラケット箱の下に床板の外れる処が在る。その下に在る新聞紙包みをここへ持って来い」
戸塚は茫然となって相手の顔を見た。相手の顔はニコニコしていた。
「……馬鹿……何をボンヤリしているんだ。その新聞紙包みをここに持って来いよ。分けてやるからな。テニス倉庫の鍵はこれだ。ホラ……」
戸塚は何という事なしに、慌てて頭を一つ下げた。鍵を受取ってポケットに入れようとしたが、その一|刹那《せつな》に片手でデッキの欄干《てすり》に掴まっていた中野学士が鮮やかな足払いをかけた。
「アッ」と叫ぶなり戸塚はモンドリ打って火の海へ落ちて行った。
「ボオオ――ンンン……」
それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った仄黄色《ほのきいろ》い水蒸気と、煙と、焔の一団が、渦巻き合いながら中空の暗《やみ》へ消え入ると、あとに等身大の大の字|形《なり》の黒い斑点が残っていたが、それとてもやがて又、何の痕跡も留めない赤い火の海平面に復帰して行った。
ただ、それだけであった。
六
中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも噎《む》せるような焼死体の異臭に鼻を撲《う》たれてペッペッと唾液を吐いた。
その序《ついで》にニッコリと笑って平炉の広い板張のデッキへ帰りかけたが、そのニコニコ笑《わらい》が突然に、金縁眼鏡の下で氷り付いてしまった。
板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。
中野学士は思わず半歩ほど後へ退《さが》った。キッと身構えをしてその男を白眼《にら》んだ。折柄、遥か向うで開いた汽鑵場のボイラーの焚口が、向い合った二人の姿を切抜いたように照し出した。
中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の拳《こぶし》を握り締めた。「何だ君は……」
相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という釜焚《かまた》きだ」
「知っている。……職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」
中野学士の語尾が少し甲走《かんばし》った。又野の瞳がキラキラと光った。
「知っとる……貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」
「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」
「……嘘|吐《こ》け……」
「退《ど》けと云うたら退《ど》け……」
中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き退《の》けてデッキの平面に立つと、間髪を容れず、立直って来る又野の足を目がけて、猛烈な足払いをかけた……が……ビクともしない……と思った瞬間に又野の巨大《おおき》な両手が、中野学士の襟首にかかって、ギューギューと絞付けて来た。
「エベエベエベエベエベエベ……」
という奇妙な声
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