たまま、後退《あとじさ》りをして玄関の外へ出ましたが、それから無我夢中であの岩山の上に駈登って、ボートの処へ降りようと致しますと、直ぐ近くの草原の中から不意に『ゴオリゴオリ』という鼾《いびき》の音が聞こえました時には、流石の私も肝ッ玉が飛上りました。モウ少しで気絶するところで御座いました。直ぐに草の中に身を伏せて、闇に狃《な》れた眼でよく見ますと、それはヤッパリ最前、麻酔させたばっかりの白髪頭の小使爺に相違御座いませぬ。逆手に持っていた刃物と見えたのは、白い瀬戸の燗瓶だった事までわかりましたが、もう引返すだけの勇気はありませんでした。それから一生懸命でボートを漕いで、海のマン中あたりまで来たと思ってホッとした時に、やっと髪毛がザワザワザワと逆立《さかだっ》て、歯の根がガタガタいい初めたような事で……あの時のように恐ろしかった事は全く、生れて初めてで、あの仕事ばっかりは最初から終《しま》いまで、魔がさし通していたような気がします。
 しかし私が、あの爺さんに麻酔をかけた事が、どうしてお解りになったのか、どうも不思議で御座います。この麻酔の一件さえわからなければ、滅多に私と星を刺される気づ
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