まだマリイ夫人の死骸を見ていないし、死んだ事も気付いていないかも知れない……というのが倫陀病院の電話で、R市の警察へ報告された第一話であった。
対岸のR市から時を移さず水上署のモーター端艇に乗って出張して来た蒲生検事、市川予審判事、R市警察司法主任(警部)巡査、刑事、警察医、書記等、数名の一行は、先ず一名の刑事を倫陀病院に派してロスコー氏と東作老人の動静を監視させた。それからマリイ夫人の屍体を調査すると、マリイ夫人というのは西洋婦人としては小柄な方で、二十歳ぐらいに見える丸々と肥った、南欧式の肉感的な美人であったが、枕元の豆スタンドから引離した黒絹の被覆コードをグルグルと首に巻付け、乱れた金髪のカールを顔面一パイにヘバリ附かせた中から、青い両眼をクワッと見開き、白くなった小さな唇から、大きな赤黒い血の塊《かた》まりをダラリと腮《あご》の下へ吐出し、薄い、青絹の寝衣を胸の処までマクリ上げたまま虚空を掴んで悶絶している状態は、トテモ凄惨で二目と見られた姿ではなかった。ロスコー氏がタッタ一目で仰天して気絶してしまったのも無理はないと思われた。むろん疑いもない電燈コードによる絞殺死体で、格闘の際の出来事であろう、舌の途中を大きく噛切っている事が間もなく警察医によって発見された。
なお薄青い寝衣の肱の曲目《まがりめ》と、肩と、臀部の真背後《まうしろ》の処が破れているのが、猛悪《もうあく》な格闘のあった事を物語っているが、それよりも何よりも警官たちを驚かしたのはマリイ夫人の肉体であった。西洋人には珍らしい餅肌の、雪のように白い背部から両腕、臀部にかけて、奇妙に歪んだ恰好の薔薇と、百合と、雲と、星とをベタ一面に入乱れて刺青《いれずみ》してあった。特にコンナ事にかけては気の弱いのを特徴とする若い、美しい西洋婦人が、コレ程の刺青をするのに、どれ程の気強さと、忍耐力を要したかを考えただけでも身の毛が慄立《よだ》つくらいであった。
これを見た係官たちはこの事件に対して今までにない一種異様な緊張味を感じたらしい。平常よりもズット熱心に捜査に従事した結果、色々な興味深い事実が次から次に判明して来た。
犯人の忍込《しのびこ》んだ処はロスコー家正面のバルコニーの真下に当る重たい板戸で、俗に万能鍵と名付くる専門の犯罪用具の中でも、最も精巧なものを使用してコジリ開けたものである事が、鍵穴を解体した結果判明した。それから犯人は玄関の内側に面した鍵の掛かっていない扉を押開いて夫人の寝室に侵入し、寝台の上で夫人と格闘してこれを絞殺した以外には、一物も奪い得ずに逃走した事実……等々々が、何の苦もなく推定されたが、ここに困るのはそれ以外の、室外に於ける犯人の行動がサッパリわからない事であった。
ロスコー家の周囲の松原には砂まじりの赤土の中から丸い石が一面にゴロゴロと露出していて苔があまり生えていない。そのために靴で踏んでも素足で歩いても足跡が全然残らないようになっていた。しかしその石のゴロゴロした松原の周囲は、岬の突端に在る松林続きの岩山を除いた全部が、真白い綺麗な石英質の砂浜になっているのだから、犯人がその岩山伝いに松原を潜って来て、帰りにも亦おなじ筋道を逆行しない限り、その松林の周囲のどこかの砂原に足跡が残っていなければならない筈であった。然るにその砂浜に残っている足跡といっては、対岸のR市から波際伝いに歩いて来た二人の沙魚《はぜ》釣男のソレと、その前に郊外電車の停留場から、やはり海岸伝いに帰って来て、マリイ夫人の死骸を見て仰天し、波打際でブッ倒おれた迄のロスコー氏の靴跡を除いては何一つ発見出来なかった。してみると犯人は闇夜の海上伝いにどこからか泳いで来るか、又は船を漕いで来て、岬の突端の岩山を越えて来たものでなければならない筈であるが、それは余程この辺の地理に精通している上に、そうした汐時と、汐先の加減を十分知り抜いていない限り、ずいぶん当てずっぽうな冒険的な遣り方で成功したものと考えなければならなかった。のみならず、その問題の岩山の上には、酔っ払っていたとはいえロスコー家の雇人の東作が寝ていたというのだから、話が何となく妙チキリンである。たとい東作を犯人として考えても、何となく辻褄《つじつま》の合わないところがあるように考えられる。
そんな事が評議、研究されているうちに、間もなく正午過ぎになると、又々異様なものが、このバンガローの中から次から次に発見されて、係官たちを面喰らわせた。
その第一は玄関の奥に、台所と隣合って設計されている浴室の立派な事であった。それはマリイ夫人の寝床の下から発見された鍵束でヤット開かれたものであったが、超モダンな分離派式タイル張《ばり》の三坪ばかりの部屋の天井と四壁に、贅沢にも十数個の電球と、合計七個の大小の鏡を取附
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