と待って下さい」
 犬田博士は透かさず手を揚げて制した。
「もうすこし犯人に関する証跡が上るまで待って下さい。最後まで研究してみて、その犯人にピッタリ来るかどうかが問題なのですから……指紋は一つも無いでしょう……どこにも……」
 署長が無言のまま眼を丸くして犬田博士の顔を見た。同時に司法主任がハッと強直した。そうして二人とも小供のように犬田博士の顔を凝視したまま点頭《うなず》いた。それは犯人が決定しかけている直前の緊張した、感激に満ち満ちた瞬間であった。
 アトから聞いたところによると、この事件の終始を通じてこの時ぐらい署長と司法主任が度肝を抜かれた事はなかったという。もちろん犬田博士は、まだこの家の内部を一度も調べた事はなかったが、一番最初に署長の話を聞いた時から指紋が一つも残っていない事をアラカタ察していたので何気なくこう云ったものであったが、この時に署長と司法主任の警部の想像に浮かんでいた犯人の特徴の一つとして、手配されて来た書類の中に「如何なる場合にも指紋を残さず」という一項が特筆されていたので、その点不意討式にズバリと云い当た犬田博士の言葉に、二人とも殆んど神に近い敬意を感じたという。

 続いて犬田博士は数人の専門家が鋭い眼を光らしている前で、犯人の侵入路と確認されている玄関の扉を調べたが、何も新しく得るところがなかったので、直ぐ横の寝室の扉の前まで来た。
「この扉には万能鍵を用いた形跡はありませんね」
 予審判事と主任警部が同時にうなずいた。犬田博士もうなずいて微笑した。
「マリイ夫人はロスコー氏が持って出て行った玄関の鍵一つで安心して、この扉には鍵を掛けずに眠っていた訳ですね。マリイ夫人は、そうした点まで気が強かった……極端にいうと女らしくない程度にまで大胆不敵な男|優《まさ》りであったとも考えられるようですが……どんなものでしょうか」
 今度は予審判事と特高課の二人が同時にうなずいた。予審判事は静かに云った。
「夫人の寝台の下に在った鍵束には、この扉に合う鍵が二つ在りました。しかしロスコー氏の遺骸のポケットから発見された鍵束には、この扉の鍵が無かったのです」
 そうした説明を聞いているうちに犬田博士は、その寝室の扉をピッタリと閉めて、鍵穴から内部を覗いてみた。そうして自分の跪いた膝小僧の正面に当る扉の青ペンキ塗の表面に見当をつけて、指紋検出用のアル
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