真と、その記述に係っており、後尾、約三分の一は子息、J・P・ロスコー氏の仕事という事になっております。各項の末尾に、それぞれ調査日附とロスコー父子もしくは特志な寄稿家の署名が添えてあります。
 尚序文に拠りますと父、M・A・ロスコー氏は×国の化学者サア・ロスコー氏の近親で、有名な大政治家G卿と、その政敵のS卿の両氏から同時に信用されていた外交官だったそうです。そのM・A・ロスコー氏の足跡は西班牙《スペイン》、土耳古《トルコ》、智利《チリ》、日本、等々々の一二等書記官どころを転々し、最後に支那、香港《ホンコン》の領事として着任しているようですが、その間に自分の趣味として手の及ぶ限り刺青に関する写真や、文献を蒐集したもので、しかも自身に各地の刺青の技術者に就いて実地の研究を遂げ、結局、支那と日本の技術が世界的に、最優秀である旨を、一々的確な例証を挙げて記述しているのですから驚くべく真剣な研究と考えなければなりません。
 ――一番最初に掲げて在る一枚は一八八六年に撮《と》ったルーマニアの皇族フロリアニ伯爵とありますが、それから後に着手された調査が、今日まで約四十年の長日月に亘っておりまして、途中一九一九年に到って子息のJ・P・ロスコー氏が父の死により研究を引受けた旨が記載してあります。
 ――問題の東作の刺青の写真は相当古いようです。日附は一九〇四年の四月になっておりますし、刺青の手法は全然日本式で、しかも徳川時代の遺法を墨守していた維新後二十年以内の図柄ですから、東作は兎《と》にも角《かく》にも先代のロスコー氏を、よく知っている筈と思われます。
 ――また息子のJ・P・ロスコー氏の屍体に残っている刺青は、左の二の腕に彫ってある分を除き、背部の全面がサラミス海戦の図になっておりまして、その古代船艦や、波濤や、空を飛ぶ神々の姿まで、非常に細かい線描になっているようですが、それがドコまでもムラのない黒の一色でボカシも何もない。その細い線の断続の工合から見ても明らかにコカインの使用法を知らない、外国でも旧式の手法に属するもので、事によると父、M・A・ロスコー氏が練習のために自身で施術してやったものではないかという想像が可能のようです。
 ――それからその次に非常に面白い事があります。それは外でもありません。自殺したJ・P・ロスコー氏の左の二の腕に在る刺青と、マリイ夫人の全身のソ
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