、太い鎖と虫眼鏡までついている。
私はそれを持って九州へ逃げた。関門海峡を渡る時に、腹の中で赤い舌をペロリと出した。ところが福岡の棲家へ帰ると電報が来ている。
「プラチナトケイ。ケイサツモンダイニナリ。トリシラベウケタ。キサマニソウイナシトワカル。シキュウヘンソウシ。ソノムネデンウテ」
私は青くなって、時計を貴重品扱いで返送した。眼のまわるほど料金を取られた。
するとそれから二週間位に、鎖と磁石つきの金時計が一個、おやじ[#「おやじ」に傍点]の名前で送って来た。手紙か何か来るかしらんと待っていたが、何も来ない。
その後上京して様子をきいて見たら、警察問題は嘘で、又おやじ[#「おやじ」に傍点]に一パイ喰わされていたことがわかった。金時計をタタキ返して遣ろうかと思ったが、考え直して止した。
明治四十一年のこと、九段竹橋の近衛歩兵第一連隊第四中隊(特に明記して置く)に一年志願兵としているうちに、或る晩の事、私の私物筥に風呂敷に包んだ餅が隠してあるのが発見された。その風呂敷に班付伍長勤務上等兵の名前が入っていたので、たちまち班内の大問題になって、私の左右に寝ている上等兵候補者が四人ほど嫌疑者として目指されて、私と一緒に毎晩厳重なしらべを受けた。旧式折敷の構え、執銃立射の構え、寝台抱え……なぞ、数十分乃至数時間にわたる拷問の恐ろしさは経験のある人でなければ説明しにくい。
毎晩点呼後の班内は悽愴の気に満ちた。けれども五人は無言の忍苦を続けた。苛責は次から次へと重くされて行った。
四晩目に私は泣いて白状した。
餅を入れたのは私である。しかし上等兵殿の風呂敷を盗んだ覚えはない。だから白状しなかったのだ……と。これは事実であるが、世にも苦しい言いわけであった。
しかしこの言いわけで、その後の取調べは有耶無耶になった。私が新聞紙に包んで置いた餅が、どうしてずっと離れた寝台に寝ている伍長勤務上等兵の風呂敷で包まれていたかという理由も、従って不明のままに終った。
四人の嫌疑者の中には、私を怨んでいるものと、私の無罪を信じてくれるものと、ふた通りあった。班内でも諸説紛々という有様であったらしい。誰かが私の餅を盗みかけていたのだという者もあった。
いずれにしても「誰かがあの風呂敷の事を白状したら」と意地になって、四人の苦痛を問題にしていなかった私の卑怯さを思い出すとその
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