洗った。立てても差支えないとは思ったが……。
 最後に私は椅子の上に置いた帽子を取上げて叮嚀《ていねい》にブラシをかけた。細かい蜘蛛の糸が二すじ三筋付いていたから、特に注意して摘《つま》み除《の》けた。ブラシに粘り付いたのと一緒に指先で丸めて、洗面器のパイプに流し込んだ。
 そのまま室の隅の帽子かけに掛けようとしたが、その序《ついで》に何の気もなく内側を覗いてみるとギョッとした。JANYSKA と刻印した空色のマークの横に、黒と金色のダンダラになった細長い生物がシッカリと獅噛《しが》み付いている。のみならずその右の前足の一本だけを伸ばしてソロソロと動かしかけているようである。
 ……お女郎蜘蛛だ……あの南堂家の木立の中に居《お》った奴がクッ付いたままここまで来たのだ。私が電燈の下で掃除をする時に、持って生まれた習性で暗い方へ暗い方へと逃げまわって、巧みに私の眼を脱れながらコンナ処に落ち付いていたのであろう。……南堂未亡人の執念……?……。
 私はフッと可笑《おか》しくなった。少々センチになったかな……と思いながらソッと窓を開けた。帽子を打振って逃がしてやった。あとに糸が残っていないのを見定めてから頭の上に載せた。
 何がなしにホッとした。
 
 南堂伯爵未亡人の死と、私とを結び付けて考え得る者は、今逃がしてやった一匹のお女郎蜘蛛以外に絶無である。心臓に短剣を刺された屍体が、私の名前を叫び立てでもしない限り……。
 私はこの原稿を書上げ次第、雑誌社に居る友人に郵送するつもりである。同時に新聞社へ宛てて神経衰弱がヒドクなったようだから一箇月ばかり静養して来る……という意味の届けを出して、警視庁の手の届かない遠い処へ飛ぶつもりでいるのだから万に一つも捕まる心配はない。
 しかし用心だけは、どこまでもしておくのが私の癖だ。
 この原稿を受取った私の友人は、いつもの通り内容をロクに見ないまま文選工場へまわすに違いない。締切を突破した予告原稿だから……。
 そこでこの原稿はバラバラになって職工の手に渡る。印刷されてもわかる気遣いはない。製本されて纏まった文章になって、蒸気とガソリンの速力で全国の読者に配布されても地名や人名は仮名になっているし、標題《みだし》に含まれている暗示もよほど注意深く新聞を読んでいる人か、又は実地を調査した係官の中でもかなり職務に忠実な人間でなければわか
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