ているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、菜種《なたね》畠の上にはあとからあとから雲雀《ひばり》があがった。
その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰を卸《おろ》すと不意に眼がクラクラして喀血《かっけつ》した。その土の上にかたまった血に大空の太陽がキラキラと反射するのを見て私は額に手を当てた。そうしてすべてを考えた。
私は東京を出てから丸三年目にやっと本性《ほんしょう》に帰ったのであった。懐中を調べて見ると二円七十何銭しかない。私は畠の横の草原に寝て青い大空を仰いで「チチババチバチバ」という可愛らしい雲雀の声をいつまでもいつまでも見詰めていた。
東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。
なつかしい檜《ひのき》のカブキ門が向うに見えると、私は黒い鳥打帽を眉深《まぶか》くして往来の石に腰をかけた。その時暁星学校の生徒が二人通りかかったが、私の姿を見ると除《よ》けて通りながら「若い立ちん坊だよ」と囁《ささや》き合って行った。青褪めて鬚を生やして、塵埃《ちり》まみれの草履《ぞうり》を穿いた吾が姿を見て私は笑うことも出来なかった。
その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。
私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓の音《ね》もその日は盛んにきこえたけれども老先生の鼓は一つも聞えなかった。
私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。
「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」
と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。
「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。
「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って明日《あす》の夜中過ぎ一時頃にわたしの室《へや》にお出で。小潜りと裏二階の下の雨戸を開けておくから。内緒《ないしょ》だよ」
と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。
その夜は曇ってあたたかかった。
植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッと跼《しゃが》んで時刻が来るのを待った。雨らしいものがスッと頬をかすめた。
……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生の室《へや》から起った。
私はハッと息を呑んだ。
「失策《しま》った。あの鼓が焼けずにいる。兄が老先生に送ったのだ。イヤあとから小包で私へ宛てて送り出したのを、老先生が受け取られたのかな……飛んでもない事をした」
と思いつつ私は耳を傾けた。
鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。
陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓の音《ね》がいつとなく陽気な嬉し気な響を帯びて来たからである。それは地獄の底深く一切を怨んで沈んで行った魂が、有り難いみ仏の手で成仏して、次第次第にこの世に浮かみ上って来るような感じであった。
みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓の音《ね》になった。しかも日本晴れに晴れ渡った青空のように澄み切った音にかわってしまった。
「イヤア……|△《タ》……ハア……|○《ポ》……ハアッ|○《ポ》……|○○《ポポ》」
それは名曲『翁《おきな》』の鼓の手であった。
「とう――とうたらりたらりらア――。所《ところ》千代《ちよ》までおわしませエ――。吾等も千秋《せんしゅう》侍《さむ》らおう――。鶴と亀との齢《よわい》にてエ――。幸い心にまかせたりイ――。とう――とうたらりたらりらア……」
と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。
やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。
私は前の雨戸に手をかけた
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