たものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。
「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って明日《あす》の夜中過ぎ一時頃にわたしの室《へや》にお出で。小潜りと裏二階の下の雨戸を開けておくから。内緒《ないしょ》だよ」
 と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。

 その夜は曇ってあたたかかった。
 植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッと跼《しゃが》んで時刻が来るのを待った。雨らしいものがスッと頬をかすめた。
 ……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生の室《へや》から起った。
 私はハッと息を呑んだ。
「失策《しま》った。あの鼓が焼けずにいる。兄が老先生に送ったのだ。イヤあとから小包で私へ宛てて送り出したのを、老先生が受け取られたのかな……飛んでもない事をした」
 と思いつつ私は耳を傾けた。
 鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。
 陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓の音《ね》がいつとなく陽気な嬉し気な響を帯びて来たからである。それは地獄の底深く一切を怨んで沈んで行った魂が、有り難いみ仏の手で成仏して、次第次第にこの世に浮かみ上って来るような感じであった。
 みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓の音《ね》になった。しかも日本晴れに晴れ渡った青空のように澄み切った音にかわってしまった。
「イヤア……|△《タ》……ハア……|○《ポ》……ハアッ|○《ポ》……|○○《ポポ》」
 それは名曲『翁《おきな》』の鼓の手であった。
「とう――とうたらりたらりらア――。所《ところ》千代《ちよ》までおわしませエ――。吾等も千秋《せんしゅう》侍《さむ》らおう――。鶴と亀との齢《よわい》にてエ――。幸い心にまかせたりイ――。とう――とうたらりたらりらア……」
 と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。
 やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。
 私は前の雨戸に手をかけた
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