「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。
 未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ち塞《ふさ》がった。
「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えて空《くう》に身を反《そ》らすとよろよろと夜具の上を逃げて来たが、私の眼の前にバッタリとうつ向けに倒れて苦しそうに身を縮めた。私は廊下に突立っている妻木君の姿と、たおれている未亡人の姿を何の意味もなく見比べながら坐っていた。
 妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。
「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで此女《こいつ》の変態性慾の犠牲になるところだった。こいつは鶴原子爵を殺し、僕を殺して、今度は君に手をかけようとしたのだ。これを見たまえ」
 と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その肋骨《あばら》から背中へかけて痛々しい鞭の瘢痕《あと》が薄赤く又薄黒く引き散らされていた。
「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって斯様《こん》な眼に会わされるのが気持よく感ずる迄に堕落してしまったんだ。けれども此女《こいつ》はそれで満足出来なくなった。今度はおれを失恋させておいて、そいつを見ながら楽しむつもりでお前を引っぱり込んだ。おれが起きているのを承知で巫山戯《ふざけ》て見せた。……けれどもおれが此女《こいつ》を殺したのは嫉妬じゃない。もうお前がいけないと思ったからこの力が出たんだ。お前を助けるためだったんだ」
「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。
「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」
 と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。
 私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄――兄――若先生――妻木君――と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。

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