ない長繻絆の裾と、解けかかった伊達巻《だてま》きと、それからしなやかにわなないている黒い革の鞭と……私は驚いてうしろ手を突いたまま石のように固くなった。
未亡人はほつれかかる鬢《びん》の毛を白い指で掻き上げながら唇を噛んで私をキッと見下した。そのこの世ならぬ美しさ……烈しい異様な情熱を籠めた眼の光りのもの凄さ……私は瞬《まばたき》一つせずその顔を見上げた。
未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。
「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたように音《おと》なしくなったんです。その上にあなたはどうです。この『あやかしの鼓』を作って私の先祖の綾姫を呪い殺した久能の子孫ではありませんか。あなたはその罪ほろぼしの意味からでも私を満足さしてくれなければならないではありませんか。この鼓を見にここへ来たのは取り返しのつかない運命の力だとお思いなさい。よござんすか。それとも嫌だと云いますか。この鞭で私の力を……その運命の罰を思い知りたいですか」
私の呼吸は次第に荒くなった。正《まさ》しく綾姫の霊に乗り移られた鶴原未亡人の姿を仰いでひたすらに喘《あえ》ぎに喘いだ。百年前の先祖の作った罪の報いの恐ろしさをヒシヒシと感じながら……。
「サ……しょうちしますか……しませんか」
と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔に颯《さっ》と閃くと、しなやかな手に持たれたしなやかな黒い鞭がわなわなと波打った。
「ああ……わたくしが悪う御座いました」
と云いながら私は又両手を顔に当てた。
……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。
ガチャリと硝子《ガラス》の壊れる音がして不意に冷たい手が私の両手を払い除《の》けた……と思う間もなく眼を閉じた私の顔の上に烈しい接吻が乱れ落ちた。酒臭い呼吸。女の香《か》、お白粉《おしろい》の香、髪の香、香水の香――そのようなものが死ぬ程せつなく私に襲いかかった。
「許して……許して……下さい」
と私は身を悶えて立ち上ろうとした。
「奥さん……奥さん奥さん」
と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にポーッと燃え上る火影《ほかげ》が二人でふり返って見ている障子にゆらめいて又消えた。
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