く》と、その子の久意《きゅうい》は久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮らしているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。
この久能の孫の久意が私の父であった。
私の父は京都にいる時分から鼓の修繕《ていれ》や仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職《てしょく》が出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄《きゅうろく》というのは生涯音信不通で、六ツの年に他家《よそ》へ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土《つくど》八幡の近くに小さな家《うち》を借りて住まわせて下すったので父はやっと息を吐《つ》いたという事である。
しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に罹《かか》って大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。
その死ぬすこし前のことであった。
私が復習《おさらえ》を済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、
「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」
と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。
……ところで……
と父は白湯《さゆ》を一パイ飲んで話し続けた。
「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。
すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳《はたち》ばかりの若い美しいはいからさん[#「はいからさん」に傍点]が来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさん[#「はいからさん」に傍点]はその時こんなことを云った。
『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているもの
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