笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にも檜《ひのき》作りの玄関にも表札らしいものが見えず、軒燈の丸い磨硝子《すりガラス》にも何とも書いてない。この家《うち》だと思いながら私は前の溝川に架かった一間ばかりの木橋を渡った。
玄関の格子戸をあけると間もなく障子《しょうじ》がスーッと開《あ》いて、私より一つか二つ上位に見える痩せこけた紺飛白の書生さんが顔を出して三つ指をついた。髪毛《かみのけ》をテカテカと二つに分けて大きな黒眼鏡をかけている。
「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」
と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。
書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを奉書《ほうしょ》に包んだもので黒の水引がかかっていて、その上に四角張った字で「妙音院高誉靖安居士……七回忌」と書いた一寸幅位の紙片《かみきれ》が置いてあった。
私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。
そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、
「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」
と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。
「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」
私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのない室《へや》へ連れ込んだ。見ると八畳の間一パイに新聞や小説や雑誌の類が柳行李《やなぎこうり》や何かと一緒に散らばっていて、真中の鉄瓶のかかった瀬戸物の大火鉢のまわりすこ
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