が第一だ」
「はい……」と小さい声で応《こた》えたが、私は何とも知れぬ悲しさと嬉しさとが胸一ぱいになって、熱い涙がハラハラ頬を流れる。努めて一口|応答《こたえ》をしようと思うけれど、張りさけるような心臓の激動と、とめどなく流れる涙とに私はただ啜《すす》り上げるばかりであった。
「小林はあれで立派な学者だ、この間の話では複線工事の監督にここへ来るということだから、君も気をつけて近附きになっておいたら何かと都合がよかろう」
私の胸には暁の光を見るように、新しい勇気と、新しい希望とが湧いた。
十六
社宅を辞して戸外《そと》に出ると夜は更《ふ》けて月の光は真昼のようである。私は長峰の下宿に帰らず、そのまま夢のような大地を踏んで石壇道の雨に洗われて険しい行人坂を下りた。
故郷の母のこと、下谷の伯母のこと、それから三崎町の「苦学社」で嘗《な》めた苦痛《くるしみ》と恐怖《おそれ》とを想い浮べて連想は果てしもなく、功名の夢の破滅《やぶれ》に驚きながらいつしか私は高谷千代子に対する愚かなる恋を思うた。私がこれまで私の恋を思うたびに、冷たい私の知恵は私の耳に囁《ささ》やいて、恋ではない、恋ではないとわれとわが心を欺いてわずかに良心の呵責《かしゃく》を免れていたが、今宵この月の光を浴びて来し方の詐欺《いつわり》に思い至ると、自分ながら自分の心のあさましさに驚かれる。
私は今改めて自白する、私の千代子に対する恋は、ほとんど一年にわたる私の苦悩《なやみ》であった、煩悶《わずらい》であった。
そして私はいままた改めてこの月に誓う、私は千代子に対する恋を捨てて新しい希望《のぞみ》に向って、男らしく進まなければならない。ちょうど千代子が私に対するような冷たさを、数限りなき私たちの同輩《なかま》はこの社会《よのなか》から受けているではないか。私はもう決して高谷千代子のことなんか思わない。
決心につれて涙がこぼれる。立ち尽すと私は初めて荒漠《こうばく》なあたりの光景に驚かされた、かすかな深夜の風が玉蜀黍《とうもろこし》の枯葉に戦《そよ》いで、轡虫《くつわむし》の声が絶え絶えに、行く秋のあわれをこめて聞えて来る。先刻《さっき》、目黒の不動の門前を通ったことだけは夢のように覚えているが、今気がついて見ると私は桐《きり》ヶ|谷《や》から碑文谷《ひもんや》に通う広い畑の中に佇んでいる。夜はもう二時を過ぎたろう、寂寞《ひっそり》としてまるで絶滅の時を見るようである。
人の髪の毛の焦げるような一種異様な臭気がどこからともなく身に迫って鼻を撲《う》ったと思うと、ぞっとするように物寂しい夜気が骨にまでも沁み渡る。
何だろう、何の臭気《におい》だろう。
おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森の梢《こずえ》には巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦《あかれんが》の煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠《ぶどうねずみ》の色をした空を蛇窪村《へびくぼむら》の方に横切っている。
私は多摩川の丸子街道に出て、大崎に帰ろうとすると火葬場の門のあたりで四五人の群に行き合うた。私はこの人たちが火葬場へ仏の骨を拾いに来たのだということを知った。両傍に尾花の穂の白く枯れた田舎道を何か寂しそうにヒソヒソと語らいながら平塚村の方に行く後影を私は見送りながら佇んだ。
「おい兄《にい》や、どうしてこんなとこへ来たんだいおかしいな、狐《きつね》に魅《つま》まれたんじゃあないの?」
私は少年《こども》の声にぞっとして振り向きさま、月あかりにすかして見ると驚いた。この間雨の日に停車場で五銭の白銅をくれてやった、あの少年ではないか。
「君か、君こそどうしてこんなところに来ているのかい」と私はニタニタ笑っている少年の顔を薄気味悪くのぞきながら問い返した。
「おらア当り前よ、ここのお客様に貰いに来ているのじゃあないか、兄やこそおかしいや!」と少年はしきりに笑っている。
ああ、少年は火葬場に骨拾いに来る人を待ち受けて施与《ほどこし》を貰うために、この物淋しい月の夜をこんなところに彷徨《うろつ》いているのだ。
五位鷺《ごいさぎ》が鳴いて夜は暁に近づいた。
十七
その年も暮れて私は十九歳の春を迎えた。
停車場《ステーション》ではこのごろ鉄の火鉢に火を山のようにおこして、硝子《がらす》窓を閉めきった狭い部屋の中で、駅長の影さえ見えなければ椅子を集めて高谷千代子と大槻芳雄の恋物語をする、駅長と大槻とは知己なので駅長のいる時はさすがに一同遠慮しているけれども、助役の当番の時なんぞは、ほとんど終日その噂で持ちきるようなありさまである。おれはかしこの森で二人の姿を見たというものがあれば、おれはここの
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