町の苦学社を逃げ出して再び下谷の伯母の家に駆け込んだ時は、自分ながら生命のあったのを怪しんだほどである。私は初めて人間の生血を吸《と》る、恐ろしい野獣《けもの》の所為をまのあたり見た。
 坂本町に住む伯母の知己《しりあい》の世話で私が目黒の駅に務めることになったのは、去年の夏の暮であった。私はもう食を得ることよりほかにさしあたりの目的《あて》はない。功名も、富貴も、それは皆若い私の夢であった、私はもう塵《ちり》のような、煙のような未来《ゆくすえ》の空想を捨てて、辛い、苦しい生存《ながらえ》の途《みち》をたどらなければならないのだ。私の前には餓死《がし》と労働の二つの途があって私はただ常暗《とこやみ》の国に行くために、その途の一つをたどらなければならないのだ。
 駅長も細君も少からぬ同情をもって私の話を聞いてくれた。やや寒い秋の夜風が身にしみて坪の内には虫の声が雨のようである。

     十五

 その夜駅長は茶を啜《すす》りながら、この間プラットホームで蘆《ろ》工学士を突き倒した小林浩平の身の上話をしてくれた、私がただ学問とか栄誉とかいうはかないうつし世の虚栄を慕うて、現実の身を愧《は》じ、世をかねる若い心をあわれと思ったからであろう。その話の大概《あらまし》はこうであった。
 小林というのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であった先代に男の子がなくて娘ばかり三人、総領のお幾というのが弥吉という婿《むこ》を迎えて、あとの娘二人はそれぞれよそに嫁《かた》づいてしもうた。この弥吉とお幾との間に出来たのがかの小林浩平で、駅長とは竹馬の友であった。
 ところがお幾は浩平を産むととかく病身で、彼がやっと六歳の時に病死してしもうた。弥吉もまだ年齢は若いし、独身で暮すわけにも行かないので、小林の血統《ちすじ》から後妻《のちぞい》を迎えておだやかに暮して行くうちに後妻にも男の子が二人も生まれた。
 弥吉は性来義理固い男で、浩平は小林家の一粒種だというので、かりそめの病気にも非常に気を揉《も》んで、後妻に出来た子どもとは比較にならないほど大切にする。妻も無教育な女にしては珍らしい心がけの女で夫の処致を夢さら悪く思うようなことなく、実子はさて措《お》いて浩平に尽すという風で、世間の評判もよく弥吉も妻の仕打ちを非常に満足に想うていた。
 ところが浩平が成長して見ると誰の気質を受けたものか、よほどの変物であった。頭が割合に大きいのに顎《あご》がこけて愛嬌の少しもない、いわば小児《こども》らしいところの少い、陰気な質であった。学友《なかま》はいつしか彼を「らっきょ」と呼びなして囃《はや》し立てたけれども、この陰欝な少年の眼には一種不敵の光が浮んでいた。
 中学へ行ってからのことは駅長は少しも知らなかったそうだ。しかし一しょに行ったものの話では小学時代と打って変って恐ろしい乱暴者《あばれもの》になったそうだ。卒業する時には誰でも小林は軍人志願だろうと想像していたが、彼は上京して東京専門学校で文学を修めた、この間駅長は鉄道学校にいて彼に関する消息は少しも知らなかったが、四年ばかり以前に日鉄労働者の大同盟罷工が行われた時、正気倶楽部《せいきくらぶ》の代表者として現われたのは、工夫あがりの小林浩平であった。
 驚いて様子を聞いて見ると、彼は学校を出るとそのまま、父親に手紙をやって「小作人の汗と株券の利子とで生活するのは人間の最大罪悪だ、家産は弟にやる、自分はどうか自由に放任しておいてくれ」という意味を書き送った。父親は非常に驚いて何か不平でもあるのか、家産を弟に譲っては小林家の先祖に対して申しわけがない、ことに世間で親の仕打ちが悪いから何か不平があって、面当てにすることと思われては困るというので、泣くようにして頼んで見たけれど浩平は頑《がん》として聞かなかった、百方《いろいろ》手を尽して見たけれどもそれは全く無駄であった。
 村では浩平が気が触れたのだという評判をする者さえあったそうだ。
 幾万の家産を抛《なげう》ち、義理ある父母を棄てた浩平はそのまま工夫の群に姿を隠したがいつの間にかその前半生の歴史をくらましてしもうた。彼が野獣のような工夫の団結を見事に造り上げて、その陣頭に現われた時には社会に誰一人として彼の学歴を知っているものはなかったのである。駅長はそのころ中仙道大宮駅に奉職《つとめ》ていて、十幾年かぶりで小林に会見したのであったそうだ。
「君なんぞまだ若気の一途《いちず》に、学問とか、名誉とかいうことばかりを思うのも無理はないけれど、何もそんな思いをして学問をしなくっても人間の尽す道はわれわれの生活の上にも充分あるではないか。
 見給え、学問をしてわざわざ工夫になった人さえあるではないか、君! 大いに自重しなくちゃいけないよ、若い者には元気
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