校でいつでも首席を占めて、義務教育を終るまで、その地位を人に譲らなかったこと、将来はきっと偉い者になるだろうというて人知れず可愛がってくれた校長先生のこと、世話になっている叔父の息子の成績が悪いので、苦労性の母が、叔父の細君に非常に遠慮をしたことなど、それからそれへと思いめぐらして、追懐《おもいで》はいつしか昔の悲しい、いたましい母子《おやこ》の生活の上に遷《うつ》ったのである。
 ぼんやりしていた私は室の入口のところに立つ人影に驚かされた、見上げるとそれは白地の浴衣《ゆかた》に、黒い唐縮緬《とうちりめん》の兵児帯《へこおび》を締めた、大槻であった。
「君! 汽車は今日も遅れるだろうね」
「ええ十五分ぐらい……は」と私は答えた。山の手線はまだ世間一般によく知られていないので、客車はほとんど附属《つけたり》のような観があった、列車の遅刻はほとんど日常《いつも》のこととなっていた。
 日はもういつしか暮れて蜩《ひぐらし》の声もいつの間にか消えてしまった。
 大槻はちょっと舌を鳴らしたが、改札の机から椅子を引き寄せて、鷹揚《おうよう》に腰を下した、出札の河合は上衣の袖《そで》を通しながら入って来たが、横眼で悪々《にくにく》しそうに大槻を睨《にら》まえながら、奥へ行ってしまった。
「今からどちらへいらっしゃるのですか」私は何と思ってか大槻に問うた。
「日比谷まで……今夜、音楽があるんだ」と言い放ったが、白い華奢《きゃしゃ》な足を動かして蚊《か》を追うている。

     三

「君! 僕一つ君に面白いことを尋ねて見ようか」
「え……」
「軌道《レール》なしに走る汽車があるだろうか」
「そんな汽車が出来たのですか」
「日本にあるのさ」
「どこに」
「東京から青森まで行く間にちょうど、一里十六町ばかり、軌道《レール》なしで走るところがあるね」と言い切ったが香のいい巻煙草の煙をフッと吹いた。
 私は何だか自分がひどく馬鹿にされたような気がしてむっとした。陰欝な、沈みがちな私はまた時として非常に物に激しやすい、卒直な天性《うまれつき》を具えている。
「冗談でしょう、僕はまた真面目《まじめ》にお話ししていましたよ」私は成人《おとな》らしい少年《こども》だ、母と叔父の家に寄寓してから、それはもう随分気がね、苦労の数をつくした。母は人にかくれてまだうら若い私の耳にいたましい浮世話を聞かせたので、私は小さき胸にはりさけるような悲哀《かなしみ》を押しかくして、ひそかに薄命な母を惨《いた》んだ、私は今茲《ことし》十八歳だけれども、私の顔を見た者は誰でも二十五六歳だろうという。
「君怒ったのか、よし、君がそんなことで怒るくらいならば僕も君に怒るぞ。もし青森までに軌道なしで走るところが一里十六町あったらどうするか」声はやや高かった。
「そんなことがありますか!」私は眼をみはって呼気《いき》をはずませた。
「いいか、君! 軌道と軌道の接続点《つなぎめ》におおよそ二分ばかりの間隙《すき》があるだろう、この間|下壇《した》の待合室で、あの工夫の頭《かしら》に聞いたら一|哩《まいる》にあれがおよそ五十ばかりあるとね、それを青森までの哩数に当てて見給え、ちょうど一里十六町になるよ、つまり一里十六町は汽車が軌道なしで走るわけじゃあないか」
 私はあまりのことに口もきけなかった、大槻が笑いながら何か言おうとした刹那《せつな》、開塞《かいさく》の信号がけたたましく鳴り出した。

     四

 品川行きのシグナルを処理して私は小走りに階壇を下りた。黄昏《たそがれ》の暗さに大槻の浴衣《ゆかた》を着た後姿は小憎らしいほどあざやかに、細身の杖《つえ》でプラットホームの木壇《もくだん》を叩《たた》いている。
 私は何だか大槻に馬鹿にされたような気がして、言いようのない不快の感が胸を衝《つ》いて堪えがたいので筧《かけい》の水を柄杓《ひしゃく》から一口グイと飲み干した。
 筧の水というものはこの崖から絞れて落つる玉のような清水を集めて、小さい素焼きの瓶《かめ》に受けたので綰物《まげもの》の柄杓が浮べてある。あたりは芒《すすき》が生いて、月見草が自然に咲いている。これは今の駅長の足立熊太という人の趣向で、こんなことの端にも人の心がけはよく表われるもの、この駅長はよほど上品な風流心に富んだ、こういう職業に埋《うも》れて行くにはあたら惜しいような男である。長く務めているので、長峰|界隈《かいわい》では評判の人望家ということ、道楽は謡曲で、暇さえあれば社宅の黒板塀《くろいたべい》から謡《うた》いの声が漏れている。
 やがて汽車が着いた。私は駅名喚呼をしなければならぬ、「目黒目黒」と二声ばかり戸《ドアー》を開けながら呼んで見たが、どうも羞かしいような気がして咽喉がつまった。列車は前後《あとさき
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