駅夫日記
白柳秀湖
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)他人《ひと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この間|下壇《した》の
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(例)高谷さん※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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一
私は十八歳、他人《ひと》は一生の春というこの若い盛りを、これはまた何として情ない姿だろう、項垂《うなだ》れてじっと考えながら、多摩川《たまがわ》砂利の敷いてある線路を私はプラットホームの方へ歩いたが、今さらのように自分の着ている小倉の洋服の脂垢《あぶらあか》に見る影もなく穢《よご》れたのが眼につく、私は今遠方シグナルの信号燈《ランターン》をかけに行ってその戻《もど》りである。
目黒の停車場《ステーション》は、行人坂《ぎょうにんざか》に近い夕日《ゆうひ》が岡《おか》を横に断ち切って、大崎村に出るまで狭い長い掘割になっている。見上げるような両側の崖《がけ》からは、芒《すすき》と野萩《のはぎ》が列車の窓を撫《な》でるばかりに生《お》い茂って、薊《あざみ》や、姫紫苑《ひめじおん》や、螢草《ほたるぐさ》や、草藤《ベッチ》の花が目さむるばかりに咲き繚《みだ》れている。
立秋とは名ばかり燬《や》くように烈《はげ》しい八月末の日は今崖の上の黒い白樫《めがし》の森に落ちて、葎《むぐら》の葉ごしにもれて来る光が青白く、うす穢《ぎたな》い私の制服の上に、小さい紋波《もんぱ》を描くのである。
涼しい、生き返るような風が一としきり長峰の方から吹き颪《おろ》して、汗ばんだ顔を撫でるかと思うと、どこからともなく蜩《ひぐらし》の声が金鈴の雨を聴《き》くように聞えて来る。
私はなぜこんなにあの女《ひと》のことを思うのだろう、私はあの女に惚《ほ》れているのであろうか、いやいやもう決して微塵《みじん》もそんなことのありようわけはない、私の見る影もないこの姿、私はこんなに自分で自分の身を羞《は》じているではないか。
二
品川行きの第二十七列車が出るまでにはまだ半時間余りもある。日は沈んだけれども容易に暮れようとはしない、洋燈《ランプ》は今しがた点《つ》けてしまったし、しばらく用事もないので開け放した、窓に倚《よ》りかかってそれとはなしに深いもの思いに沈んだ。
風はピッタリやんでしまって、陰欝《いんうつ》な圧《お》しつけられるような夏雲に、夕照《ゆうやけ》の色の胸苦しい夕ぐれであった。
出札掛りの河合というのが、駅夫の岡田を相手に、樺色《かばいろ》の夏菊の咲き繚れた、崖に近い柵《さく》の傍《そば》に椅子を持ち出して、上衣を脱いで風を入れながら、何やらしきりに笑い興じている。年ごろ二十四五の、色の白い眼の細い頭髪《かみ》を油で綺麗《きれい》に分けた、なかなかの洒落者《しゃれもの》である。
山の手線はまだ単線で客車の運転はホンのわずかなので、私たちの労働《しごと》は外から見るほど忙しくはない。それに会社は私営と来ているので、官線の駅夫らが嘗《な》めるような規則攻めの苦しさは、私たちにないので、どっちかといえばマアのんきというほどであった。
私はどうした機会《はずみ》か大槻芳雄《おおつきよしお》という学生のことを思い浮べて、空想はとめどもなく私の胸に溢《あふ》れていた。大槻というのはこの停車場《ステーション》から毎朝、新宿まで定期券を利用してどこやらの美術学校に通うている二十歳《はたち》ばかりの青年である。丈《せい》はスラリとして痩型《やせぎす》の色の白い、張りのいい細目の男らしい、鼻の高い、私の眼からも惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするような、嫉《ねた》ましいほどの美男子であった。
私は毎朝この青年の立派な姿を見るたびに、何ともいわれぬ羨《うらや》ましさと、また身の羞《はず》かしさとを覚えて、野鼠《のねずみ》のように物蔭《ものかげ》にかくれるのが常であった。永い間通っているものと見えて、駅長とは特別懇意でよく駅長室へ来ては巻煙草《まきたばこ》を燻《くす》べながら、高らかに外国語のことなどを語り合うているのを聞いた。
私の眼には立派な紳士の礼服姿よりも、軍人のいかめしい制服姿よりも、この青年の背広の服を着た書生姿が言い知らず心を惹《ひ》いて堪えられない苦痛《くるしみ》であった。私は心から思うた、功名もいらない、富貴《ふうき》も用はない、けれどもただ一度この脂垢のしみた駅夫の服を脱いで学校へ通うてみたい……
ああ私の盛りはこんなことをして暮らしてしまうのか。
私は今ふと昔の小学校時代のことを想い出した。薄命な母と一しょに叔父《おじ》の宅《うち》に世話になっていたころ、私は小学
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