と足立さんとが、決して金を請求するためにこんなことを言うたのじゃあない、療治代を貰いたいために話したのじゃあないと言うと、野郎|怪訝《けげん》な顔をしているのです。それから何と言うかと思うと、おれは日本鉄道の曽我とは非常に懇意の間《なか》だ、何か話しがあるならば曽我に挨拶しようと言う。私はもうグッと胸が塞《つま》って来ましたから、構うことはないもうやっつけてしまえと思ったのですけれども、足立さんがしきりに止める。私も駅長の迷惑になるようではと思いかえして腕力だけはやめにして出て来たんです」
 話しているところへ駅長が微笑を含んで入って来た。
「曽我祐準の名をよほどわれわれが怖がるものと思うたのか、曽我曽我と言い通して腕車《くるま》で逃げ出してしもうたよ」と言いながら駅長は制服のまま、小林と並んで縁側に腰を下したが、「どうも立派な顔はしていても、話して見ると、あんな紳士が多いのだからな」と言うたが思い出したように私の方を見て、
「傷はどうだい、あんまり大したこともあるまい、今、岡田に和服《きもの》を取りに行ってもらうことにした」
 短かい秋の日はもう暮れかけて、停車場では電鈴がさも忙しそうに鳴り出した。

     十三

 栗の林に秋の日のかすかな大槻医師の玄関に私はひとり物思いながら柱に倚《よ》って、薬の出来るのを待っている。
「もういいのよ……」どこかで聞き覚えのある、優しい処女《おとめ》の声が、患者控室に当てた玄関を距《へだ》てて薬局に相対《むきあ》った部屋の中から漏れて来たが、廊下を歩く気配がして、しばらくすると、中庭の木戸が開いた。
 高谷千代子の美しい姿がそこへ現われた。いつにない髪を唐人髷《とうじんまげ》に結うて、銘仙の着物に、浅黄色の繻子《しゅす》の帯の野暮《やぼ》なのもこの人なればこそよく似合う。小柄な体躯《からだ》をたおやかに、ちょっと欝金色《うこんいろ》の薔薇釵《ばらかざし》を気にしながら振り向いて見る。そこへ大槻が粋《いき》な鳥打帽子に、紬《つむぎ》の飛白《かすり》、唐縮緬《とうちりめん》の兵児帯《へこおび》を背後《うしろ》で結んで、細身の杖《ステッキ》を小脇《こわき》に挾《はさ》んだまま小走りに出て来たが、木戸の掛金を指《さ》すと二人肩を並べて、手を取るばかりに、門の方に出て行くのである。
 千代子は小さい薬瓶を手巾《ハンケチ》に包んでそれに大槻の描いた水彩画であろう半紙を巻いたものを提《さ》げている。私はハッとしたが隠れるように項垂《うなだ》れて、繃帯のした額に片手を当てたが、さすがにまた門の方を見返した。
 私が見返した時に、二人はちょうど今門を出るところであったが、一斉《いっせい》に玄関の方を振り向いたので、私とパッタリ視線が会うた。私は限りなき羞かしさに、俯向いたまま薬局の壁に身を寄せた。
 きのうまで相知らなかった二人がどうして、あんな近附きになったのであろう、千代子が大槻を訪ねたのか、イヤイヤそんなことはあるまい、私は信じなかったが世間の噂では大槻は非常に多情な男で、これまでにもう幾たびも処女を弄《もてあそ》んだことがあるという、そう言えばこの間も停車場《ステーション》でわざわざ千代子の戸《ドアー》を開けてやったところなど恥かしげもなく、あつかましいのを見れば大槻が千代子を誘惑したに相違ない。それにしても何と言うて言い寄ったろうか。
 千代子が大槻のところへどこか診察してもらいに行って、この玄関に待ち合わしているところへ大槻が奥から出て来て物を言いかけたに違いない、「マアこっちへ来て画でも見ていらっしゃい」などと言う、大槻はいい男だし、それにあの才気で口を切られた日には、千代子でなくとも迷わない者はあるまい。
 佳人と才子の恋というのはこれであろう、大槻が千代子を恋うるのが無理か、千代子が大槻を慕うのが無理か、たとえば絵そらごとに見るような二人の姿を引きくらべて見て私はさらに、「私が千代子を恋するのは無理ではないだろうか」と、われとわが心に尋ねて見たが、今まで私の思うたことのいつか恐ろしい嫉妬《ねたみ》の邪道《よこみち》に踏み込んでいたのに気がつくと、私はもう堪えかねて繃帯の上から眼を蔽《おお》うて薬局の窓に俯伏した。
「藤岡さん、薬が出来ましたよ」と書生は薬を火燈口から差し出してくれたが、私の姿をあやぶんで、
「また痛みますか、どうしたんです?」と窮屈そうに覗《のぞ》きながら尋ねる。
「いいえ、どうも致しません」と私は簡単に応《こた》えて大槻の家の門を出たが、水道の掘割に沿うて、紫苑《しおん》の花の咲きみだれた三田村の道を停車場の方にたどるのである。
 私はなぜに千代子のことを想《おも》うてこんなに苦しむのだろう、私はゆめあの女《ひと》を恋してはいない、私がいつまでもいつまでもあの女のこ
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