47−下−14] 駄目《だめ》です駄目《だめ》です!」と私は一生懸命に制止した。
紳士は微酔《ほろよ》い機嫌《きげん》でよほど興奮しているものと見えて、私のいうことをさらに耳に入れない。行きなり疾走をはじめた二等室を追いかけて飛び乗りをしようとする。私はこの瞬間|慥《たし》かに紳士の運命を死と認めた。
よし救え! 私は立ちどころに大胆な決心をした。
まさに紳士が走り出した汽車の窓に手をかけようとした刹那《せつな》、私は紳士のインバネスの上から背後《うしろ》ざまに組みついた。
「な、な、何をするか! 失敬な※[#感嘆符三つ、448−上−2] こやつ……」
「お止しなさい、危険《あぶない》です※[#感嘆符三つ、448−上−3]」
駅長も駆けつけた。
けれどもこの時紳士は男の力をこめて私を振り放したが、かっとして向き返ると私の胸を突き飛ばした。私は突かれるとそのまま仰向けに倒れたので、アッという間もなく、柱の角に後頭部をしたたか打ちつけた。
* * *
仮繃帯《かりほうたい》の下から生々しい血汐《ちしお》が潤《にじ》み出して私はいうべからざる苦痛を覚えたが、駅長の出してくれた筧《かけい》の水をグッと飲み干すとやや元気づいて来た。
汽車はもう遠く去ったけれども、隧道《トンネル》の口にはまだ黒い煙が残っている。見ると紳士の顔にもしたたか泥が付いて、恐ろしい争闘《いさかい》でもした跡のよう、顔は青褪《あおざ》めて、唇には血の気の色もない、俯向いてきまりが悪そうに萎《しお》れている。口髯《くちひげ》のやや赤味を帯びたのが特長で、鼻の高い、口もとに締りのある、ちょっと苦味走った男である。
紳士の前に痩身《やせぎす》の骨の引き締った三十前後の男が茶縞《ちゃじま》の背広に脚袢《きゃはん》という身軽な装束《いでたち》で突き立ったまま眼を光らしている。鳥打帽子の様子といい、草鞋《わらじ》をはいたところといいどこから見ても工夫の頭《かしら》としか見えない。
「どうだ上まで歩かれるか、大丈夫だろう洗って見たら大した傷でもあるまい」と駅長が優しくいうので、私も気を取り直して柱を杖に立ち上った。
傷は浅いと見えてもうあまり眩暈《めまい》もしない。「もう大丈夫です」と答えると、駅長はちょっと紳士の方を向いて、
「どうかちょっとお話し致したいことがございますから」というと紳士は黙って諾《うなず》いた。
「じゃあ君もね」と工夫頭の方を向いて駅長が促した。その親しげなものの言い振りで私ははじめて、二人が知己《しりあい》であるということを知った。
駅長は親切に私をいたわって階壇を昇《のぼ》るとその後から紳士と工夫頭とがついて来た。壇を昇りきると岡田が駆けて来て、
「大槻さんが今すぐに参りますそうで」と駅長の前に呼気《いき》を切りながら復命した。
十一
私はそのまま駅長の社宅に連れて行かれて、南向きの縁側に腰を下すと、駅長の細君が忙わしく立ち働いていろいろ親切に手を尽してくれる。
そこへ罷職軍医の大槻|延貴《のぶたか》というのがやって来て、手当てにかかる。私はジッと苦痛《くるしみ》を忍んだ。
手術はほどなく済んで繃帯も出来た。傷は案外に浅くって一週間ばかりで全治するだろうという話、細君の汲んで来た茶を飲みながら大槻は傍にいた岡田を相手に、私が負傷した顛末《てんまつ》を尋ねると細君も眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら熱心に聞いていたが、
「マア、ほんとうに危険《あぶな》いですね、――それにしても藤岡さんがいなけれゃあ、その人は今ごろもうどうなっているか分りませんね」
「何にしろ、すぐ隧道《トンネル》になるのですからね、どうしたって助かるわけはないです」と岡田が口を入れる。
「危険《あぶない》ですな! 汽車も慣れるとツイ無理をしたくなって困るのです」と大槻はいうたが、細君と顔を見合わせて、さて今まで忘れていたように互いに時候の挨拶をする。
大槻は年ごろ五十歳あまり、もと陸軍の医者で、職を罷《や》めてからは目黒の三田村に遷《うつ》り住んで、静かに晩年を送ろうという人、足立駅長とは謡曲の相手で四五年|以来《このかた》の交際《つきあい》であるそうだ。
大槻芳雄というのは延貴の独《ひと》り息子《むすこ》で、少からぬ恩給の下る上に遺産もあるので、出来るだけ鷹揚《おうよう》には育てたけれど、天性《うまれつき》才気の鋭い方で、学校も出来る、それに水彩画がすきでもし才気に任せて邪道に踏み込まなかったならばあっぱれの名手となることだろうと、さる先輩は嘆賞した。けれどもこの人の欠点をいえばあまり画才に依頼しすぎて技術の修練をおろそかにするところにある。近ごろ大槻はある連中とともに日比谷公園の表門に新設される血なまぐさいパノラマを
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